三階席のメモ(歌舞伎が多め)

三階席の素人客が、感想メモやら気になった記事をとっておいた。この場を借りて自身の備忘録とする。

『仮名手本忠臣蔵』「二段目」の備忘録 〜〜芸談・型・劇評など〜〜

二段目は上演頻度が少ないだけあって、言及も少ない。資料見つけ次第随時追加します。

※敬称省略

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若狭之助=2中村鴈治郎 本蔵=10嵐三右衛門

上記は昭和23年2月南座で上演された二段目で、場を「鹽冶の上使・堪忍の松切」としている。ぱっと見は「建長寺」のようであるが、三宅周太郎の劇評によると

南座は「仮名忠」とはいえ、二段目を出したのが「通し」といふ以上、初歩の見物に親切だった。その臺本は後世の改作の「建長寺」じみてゐるが、一應原作の「桃井舘」をなぞってはゐる。幕切れに本蔵の賄賂持参の「馬ひけ」がないのは困る。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻第三号)

とある。この前の場には、2實川延二郎の力弥、4坂東鶴之助の小浪と二人が出ていることからして純然たる建長寺一幕でもなく、劇評からして原作本位の二段目でもないことが分かる。この二段目は上演頻度が少ないため固定された台本がないことがうかがえる。

二段目

研究・批評

武智鐵二

忠臣蔵二段目演出ノート」『歌舞伎の黎明』青泉社 昭和30年7月

桃井若狭之助

芸談
研究・批評

カシラ

アオチとネムリの源太(油付、武士髷)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

武智鐵二 忠臣蔵二段目演出ノート

若狭之助は短慮なる心を基とし、無念の気持をイキのつんだ義太夫風の立言葉を以て言わせ、反羽左衛門的にする。(忠臣蔵二段目演出ノート」『歌舞伎の黎明』青泉社 昭和30年7月)

加古川本蔵

芸談 

8坂東三津五郎 本蔵の心得

三津五郎「『松伐り』は早寝刃といってずいぶん乱暴な話だけれども、殿様の刀をとって松を伐って、松脂をつけたまま、拭わずに鞘に収めるというんです。」

服部「松脂で刃を止めるわけですか」

三津五郎「殿様が殿中で抜こうとしても抜けないように、ですね。そういうのが本蔵の心得になっています。」「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

17市村羽左衛門

私がおやじから聞いたいた話で、本蔵の松の枝を伐るのは、あれは若狭之助の刀で伐るのだ、と。それで、松のヤニが付いて、そのまま鞘に納めるとと抜けなくなるという気持ちだと聞きました。若狭之助の決意を本蔵は知っていますから、刃傷に及ぶのを未然い防ごうという配慮なんでしょうね。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』) 

 

13片岡仁左衛門 11田中傳左衛門

片岡「これは岡先生にわたくしたち習ってましたのは、若狭助の刀で切って脂どめで、抜けないようにするんだというんですがね。わたくし、そう習いました。」
田中「わたくしも。・・・・でございますから、あれは刀が抜けない思入れがある。俳優さんによると、(三段目で)「おかしいな」という思いれがあって、「馬鹿な侍・・・」で引ッ込んで行く。おかしいないという思入れがあっていいというお話をうかがったことがあるんでございますけれども。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

研究・批評

カシラ

鬼一(胡麻、油付、武士髷)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

戸板康二 「御意」の味わい

二段目の代わりに建長寺を出す演出をはじめたのは、七代目市川團十郎で、その台本が上方に伝わった。三宅周太郎氏よれば、初代中村鴈治郎の若狭助、二代目中村梅玉の本蔵で演じられた建長寺は、梅玉の本蔵の「御意」「御意」というセリフに、最後の上方歌舞伎の味があったということである。(戸板康二『新版 忠臣蔵東京創元社 昭和36年7月)

 

松の脂

そうかといって、松の脂で刀がぬけなくなるような細工をしたなどというのは、俗説も甚だしい。(戸板康二『新版 忠臣蔵東京創元社 昭和36年7月)

 

大正13年12月 本郷座 二代目左團次の幕切

原作では「馬引け」で馬に乗るが、大正13年12月に本郷座で二代目左團次が演った時には、本文通り馬に乗ったという。

 

幕切 川尻清潭

この幕切れに父本蔵が師直の処へ、音物を持って馳け付ける件り、二代目左團次の上演では院本通り馬へ乗りましたが、古い評判記を見ると、後年では「馬引け」と呼んで下座で轡の音を聞かせる演出もあったようです。(『忠臣蔵』の口伝『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

大星力弥

芸談

8坂東三津五郎 結界

それと、二段目で大切なことは、〽威儀を改め」というところで、力弥がそれまでさしていた扇子を前に置いて口上を述べますね。あれは「結界」を置いているわけです。扇子を置かれるといくら恋人でも、そこから先へはいかれない、そういう約束がありますね。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

研究・批評

カシラ

若男(油付、前髪付、鳶口)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

二段目の眼目 加賀山直三

ここは、力弥小浪の半草紙的趣味の少年少女の恋のやりとりの面白味以外に見るべきものはないと云ってよく、戸無瀬の虚病も、九段目の重量味とは段違いの安直さである。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

武智鐵二 忠臣蔵二段目演出ノート

力弥も「行儀作法第一」という反省と教養との上に立って演技させる。(忠臣蔵二段目演出ノート」『歌舞伎の黎明』青泉社 昭和30年7月)

小浪

芸談
批評・研究

カシラ

娘(油付、文金島田)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

梅と桜 戸板康二

この「梅と桜」のくだりでは、小浪が持ってきた茶の茶卓へ指を入れてグルグルまわし、その穴から力弥の顔をのぞいて見るという型がある。少女っぽい型である。(戸板康二『新版 忠臣蔵東京創元社 昭和36年7月)

 

川尻清潭

二段目は近年増補物の建長寺で見せるのが多くなりましたが、本来は若狭之助の屋敷へ大星力弥が使者に来る処。母の情けでその承り役を勤める加古川の娘小浪がかねて許嫁との対座に、恥ずかしさを表現する仕科に、丸型の茶卓の穴から力弥の顔を見るのが古い型、又は茶卓の穴へ、両の人差指を入れて、グルグル廻すのもあったと聞いています。(『忠臣蔵』の口伝『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

建長寺

芸談

2中村梅玉

先代嘉七さんの本蔵に、私の工夫を加え演じております。この役は、桃井家譜代の家臣で、しかも先君御臨終の枕辺へ召され、性来短慮な若狭之助の行末を頼まれているので、日頃から主君の気質はよく呑み込んでいる訳です。ですから、意見をするくらいのことは無論心得ているのですが、主人の心中は推量出来るから、「逆わぬ」こころで、まず「ものの見事に遊ばされましょう」といい切って、主人の台詞を「ごもっともごもっとも」、あるいは「御意」などと答えて、主人の心を和らげながら、しまいには「犬のように這いつくばって詫びる奴まで斬る気はない」という言葉を、だんだん引き出すようにつとめるのが芝居の仕どころになっています。つまり、どこまでも若狭之助の腹の中へ入り込むのが、この場の第一の要めでしょう。(『季刊 歌舞伎』「忠臣蔵特集」第二号))

批評・研究

服部幸雄

「桃井館」となるのを、「建長寺」にすることもある。「建長寺」は幕末(天保8年9月、市村座所演)からで、七代目の團十郎が場面を建長寺に変えたんですね。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

戸板康二

七代目市川團十郎が場面を建長寺に直した型は、初代中村宗十郎によって伝承され、上方にのこっているが、あまりおもしろくはない。(「仮名手本忠臣蔵」『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

 

渥美清太郎

二段目を桃井の邸でなく、建長寺で見せるのは、今でも大阪あたりでよくやる型だが、これは七代目團十郎が江戸で試みて、大阪へ持って行ったのが残ったので、初めは建長寺の住職を出して、蒟蒻問答のような事を見せたのだが、これだけは流石に伝わらなかった。工夫好きの七代目は、本蔵との間を茶室の道具で見せた事がある。江戸お構いの最中、大阪でやったのある。その頃大阪ではひどくお茶が流行ったところから、それを当て込んだ趣向で、若狭之助が茶の手前を見せ、本蔵を客として、一椀喫した後に鶴ケ丘の物語をする訳なのだが、これは大不評で、誰も後に真似る役者はなかった。それは当たり前だ。一徹短慮の若狭之助と、落ち着きを見せる茶の湯とが、マッチする理屈はない。評判記でも悪く云っている。(「亡びた型」『役者』第5号 昭和22年11月)

 

昔の建長寺 服部幸雄

渥美清太郎さんの書かれたものによると、最初は随分変なもんおだったみたいです。まず建長寺の住職が現れて、床の間のかけ物に書いてある文字について、若狭之助とコンニャク問答のようなことをして引っ込むと、こんどは早替りで本蔵になって出て、例の松伐りになるという、そんなことだったらしい。この台本はかえって上方で行われ、まとめられたのですね。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

初代吉右衛門の二段目 幕切

11田中傳左衛門「それで、幕切れに「時の太鼓」があるんでございますからね。「まッこの通りお切り遊ばせ」ッていうと、若狭助が「ウム」ドン、「ウム」ドンと、所謂播磨屋さんの演出の「時の太鼓」です。」
13仁左衛門「うちのお父つァんのは太鼓でなく盤木です。幕切れが。」
11田中傳左衛門播磨屋さんの松を切るのは、確か、本蔵が扇子で松を切る型をしましたが本当は自分の刀で切ってるんですね。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

昭和29年12月歌舞伎座の場割

昭和29年12月の歌舞伎座に二段目が出て、この時は、「梅と桜」がのあとで、別に「建長寺」に場面を移す変則な演出だったが、その型を高麗蔵の力弥、芝雀(のちの四代目時蔵)の小浪で復活した。(戸板康二『新版 忠臣蔵東京創元社 昭和36年7月)

 

二段目の変則的な出し方 加賀山直三

近年、二段目は殆ど省略、稀に出ても、外伝的な建長寺を以て替へるし、去年十一月帝劇での関西歌舞伎のも、力弥上使だけで、その前後は省略、後は建長寺をくッつけて居たし、戸無瀬も出ないで、乳母が代用品で出て居ると云ったやり方だった。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

武智鐵二 忠臣蔵二段目演出ノート 

勿論原作通り桃井館で行く。建長寺へ力弥が来るような不合理な変則的なやり方はしない。と云って唯の建長寺にして、力弥と小浪との「梅と桜」の件を省略してまうのもいけない。ここで小浪の力弥への愛情を示しておかないと、後の九段目演出が唐突になり、本蔵の性格表現や、作者の真意の表現が不可能となる。(「忠臣蔵二段目演出ノート」『歌舞伎の黎明』青泉社 昭和30年7月)

 

若狭の仕所

加賀山直三「お茶坊主が冗くいろんなことを言うので自裂るやつですね。あれも少しあざといですね。」
13仁左衛門「若狭のセリフで「彼奴なかなか左様なやつではないわい」というところが仕所ですが、増補物だから、別にたいしていうことはないけれども。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

昭和61年10月国立劇場建長寺 若狭=12團十郎 本蔵=17羽左衛門

二川清「大序であんなに下手な團十郎が、ここではどうしてこんなに巧いのかって、びっくりしました。

清水一朗「あれが巧いって言えますか。」

二川清「巧いと思ったですね。本蔵とのやりとりで、だんだんせっついて来る処なんか実に巧いんでね。あの人は地がかった芝居はかなり出来るんですね、難しくないんだろうけど。要するに義太夫狂言義太夫の台詞廻しじゃなくて、世話物っぽい台詞はちゃんと出来るんです。一方、羽左衛門の本蔵があんまり巧くないって言うのか、味がないのにがっかりしました。大阪の大梅玉の本蔵が、若狭がせっこんで行くと答えて言う「御意」「御意」で、満場を唸らしたって聞きますがおおよそそんなこと全然知らないみたいな言い方してました。いかにも詰まらないって感じで。だから、若狭之助でびっくりして、本蔵でがっかりしました。」

上村以和於「そりゃああいう地狂言みたいな芝居ってのは、梅玉の例みたいに何でもない処に芝居っ気が必要なんじゃないかな。その演り方は今の人にはもう余り伝わってないと思う、羽左衛門級の人でも。」

二川清「せいぜい仁左衛門位までですね、長門守の血判取りであんな芝居がありますから。」

木本公世「イヤホンガイドを私聞いたことがないんですが、二段目なんかきっと先走っていろいろ解説してるんじゃないかと思うんですよ。二段目の面白さってのは、解説されちゃったら何の意味もない面白さでしょ。若狭之助と判官が対置されていて、同じシチュエーションをダブらせて行って、判官の方が切腹する訳ですから。その説明に過ぎないような場だと思うんですよ。だから力弥上使を出さないのなら、あの場はいらなかったんじゃないですか。海老蔵ーーあっ團十郎か、気にならなかっただけに巧かったのかも知れませんけども。」

津金規雄「でも、ちょっと大き過ぎませんか。まっ白けで、変に大きく見えちゃって。それにあの場自体が仮名手本じゃなくて、完全に実録物の感触でしょ。あの一場だけが違っている、何かリアルになってて変でした。」

清水一朗「あれは主従が肚を探り合う訳でしょ、本蔵が進物に行くことを決意しながら、御意々々と主人の言分を聞いてる。しかし、あのやり方じゃ肚が見えない。もっと突っ込んで臭くやらなきゃ判らないんじゃないかな。」

上村以和於「先刻言ったのは、その辺のことなんことなんだがね。」

清水一朗「それが出来ない人が、肚芸を見せようたって、そりゃ無理だと思う。」

津金規雄「盆栽の松じゃなくて、庭の松を切る位のことをしないといけない。」

清水一朗「せめて縁先に持ち出すとかしなけりゃ、後を向いて切るんだもん。」

津金規雄「それに菩提寺の盆栽を切るのは、余りにも不謹慎じゃありませんか。」

清水一朗「そういう理屈を言ってたんじゃ芝居は成立しなくなる。」

津金規雄「そういうことを感じさせちゃうほどリアルな芝居なんですよ。」

佐藤俊一郎「二段目というのは、前半に力弥と小浪が出て来る。そして後半は男二人でしょ。作者は恐らくその効果を考えたんだと思うんです。後半だけ演ったことで、この劇の意味が一つ落っこってしまった。」

木本公世「折角いい力弥がいるのにね。」

二川清「要するに七代目團十郎が、自分の趣味で作った場面なんですよ。」

上村以和於「この前国立で演ったときは、二・八・九段目と演った訳です。加古川ファミリィーだなんて悪口言う人もいたけど。私は面白い試みだと思った。力弥上使があって、八・九段目の伏線になる。今度は伏線じゃなくて、大序と三段目の間というだけなんで、それじゃ単なる説明にしか過ぎない。」

二川清「そういう芝居なんですから、もともと。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月)

 

 その他・劇評など

2中村又五郎

大阪の新歌舞伎座は廻り舞台がないでしょ。ですから「松伐り」から「喧嘩場」になる転換がスライドなんです。だから、なんだか隣座敷みたいでおかしかった。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

桃井館の道具

前の力弥小浪の件りは平舞台でやり、まわって二重になるやり方があり、また「松伐り」まで平舞台で済ませるものもある。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

道具

原作どおり「若狭之助館」で行けば道具が平舞台じゃなく二重になりまね。だから、馬に乗るのも変じゃなくなる。ところが今は「建長寺」で、平舞台だからね。本当は二段目は二重舞台でいった方が三段目との変化がついていいと思う。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

三宅周太郎

大正二年の今の我當の千代之助の子供時代、その片岡少年劇の市村座ではこれを本文でやった。大正末の左團次の丸本による忠臣蔵の本郷座の時は、更に丁寧にこれをやり、舞台も今度の平舞台(だから「建長寺」の方に見える)でなく、高二重にした。そして故莚升の力弥、芝鶴の小浪で甚だ可憐の好一対で、本文の「ぢっと見かわはす顔と顔、互の胸に恋人と、物の得いはれぬ赤面は梅と桜の花相撲に枕の行司なかりけり」の情緒さへ出していた。今度の延二郎、鶴之助も一応心得てはいるがもう一と息。駒之助改め嵐三右衛門の本蔵もその方、鴈治郎の若狭之助はいい方だ。先代はこれをよくやったが、先代梅玉の本蔵は実に絶品、本当の逸品だった。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻第三号)

『仮名手本忠臣蔵』「三段目」の備忘録 〜〜芸談・型・劇評など〜〜

 

「大序」から「〜〜芸談・型・劇評など〜〜」編では長たらしく抜粋した文を記載している。自身の備忘録としてスタートしているのだから、参考文献を挙げればそれで済むはずだ。事実その方が抜粋より、オリジナルの文脈で正しく読めるから、文献にあたった方が良い。

しかし、わざわざこうして簡略化して載せたのは一応の理由がある。例えば、固定化した演出の現在の歌舞伎に対しての疑問。本来なら家に伝わる演り方や、その人に合った芸風やニンがあるはずなのに習う先生(役者)が一緒になってしまい、芝居が一色になって詰まらない傾向がある。往時の役者の演じ方を知り、客席側からもっと提案することもあるのではないかと思い、そのための取っ掛かりとして作成した。

また、こうして見比べてみると発見もある。例えば九代目團十郎の若狭之助は、引っ込む際に「プッ」と吐くだけというのが一般に認識されているが、七代目三津五郎の話しだと「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にて」の台詞を言ったかのように記録されている。実際は日によってどちらも演ったのかもしれないし、或は記憶違いとかの可能性もある。だが、権威ある批評家の言が一旦活字化されるとそれが絶対視され、後世にも固定化の影響を与えかねない。要は、一つの事柄に対して複数の出典を可能な限り用意することにした。

 

※随時更新します。

進物場

時太鼓と調べ

幕明きは「時太鼓」と「調べ」の二通りある。板付きと空の舞台 の場合で使う下座も変わるらしい。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

姿を見せた師直

昔は、原作通り師直が駕篭内に姿を見せていたらしく、「いろは評林」の師直の条に、嵐三五郎の三段目は「本蔵の追従への喜びは、とかく端敵めく。烏帽子、大紋の筆頭職が喜ぶ体を見せねばならぬ」などと記されている(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

本文通りの演出 志野葉太郎

ここに師直が登場するという本文通りの演出を前進座がみせたことがある。(昭和7年市村座)長十郎の師直が大序そのままの烏帽子大紋姿で駕籠から出、挟み箱に腰かけて本蔵と応待していたのがそれで(後略)。

※普通は手を鳴らすか、その都度駕籠の御簾を動かす。 

喧嘩場

御簾の間の刃傷 富田鉄之助

人形の方に「御簾の間の刃傷」という古い演出がある。師直が判官をさんざん罵って奥へ入ると、判官は口惜しさを堪えているが、我慢出来ぬ体に脇差を抜き奥の間へ入ると、道具替りで大欄間の一面に簾の下りた座敷になる。バタバタで師直が、すでに眉間に一刀浴びせられた体で、簾を破り逃げて出る。このとき、簾がバラバラになりその間から判官が現れる。諸大名が抱き止めると判官が抜身を投げて〽上を下へと」の段取りになる。歌舞伎でも天保以後、時々この演出を見せていた。最近では明治二五年の角座で、仁左衛門が、同じく大正十三年の本郷座で左団次が、この演出を見せている。しかし、これは”腹立ちしまま前後見境いもなく”という本文からみて、判官の些かの思慮を感じさせるというのが初演当時の世評であった。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

御簾を切り破る演り方 服部幸雄

これは明治二十五年に角座で出した時の記録があるのですけれども・・・。この時は、師直が十世仁左衛門、判官が初世右団次です。師直がさんざんに罵って奥へ引っ込むと、あとは判官のひとり舞台で、しばらく歯がみをして口惜しがり、我慢できなくなって脇差を抜き、向うを見込んだまま奥の間さして追いかける。ここで柝なしで舞台が廻ると、舞台は二重で一面に御簾がおりている。バタバタで師直は既に眉間に一刀浴びせられていて、御簾を破って逃げてくる。この時、御簾がバラバラになって、その間から判官が現われる。大名が大勢で判官を抱きとめると、判官が師直めがけて抜身を投げるのが柝の頭、ということのようです。もともと人形の方にあった型だそうですが、先代左団次の本郷座の時もこれをやっています。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

変型演出

姿見の師直が有名だが、天明以後、「鶉献上」とか「照月の一軸騒動」とかの挿入もある。

 

昔と変化 11田中傳左衛門

道具が収まってから、それで止め柝で床が語る手順だが、そこへ昔はかぶせて鼓を打っていたそう。打っているのが床の詞に附いているとのことで、大阪では演っていたそうだ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

”松の廊下”の松について 8坂東三津五郎

三津五郎が舞台美術家の長坂元弘に「大奥障壁画図鑑」を参考に、実際の松の廊下のスケッチをとらせた。六代目菊五郎がそれを参考に「小松」(ヒョロ松)で二度ほどやったことがあるそうだ。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

昭和12年11月歌舞伎座での写真を見ると、通常とは異なる小ぶりの枝で描かれている。(「思い出の舞台」第299回 平成28年10月国立劇場 歌舞伎公演 パンフレットより)

 

正面が張壁か襖の違いはある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

「幕三重」について 如月青子

三段目と四段目をつなぐ幕三重については、おかしな点がある。”実録”の感覚に支配されるあまり、”仮名手本”ということが忘れられている。「花献上」というものを考慮すれば幕三重とはならない。永山会長は六代目のときにも演っていたから、それをそのまま受け継ぐという考えらしい。ただ、伝承、伝承といっても何となく気楽にやったのが型になっているものもある。13仁左衛門も自身の父の記憶から、つなぎは昔はなかったと語っている。(「芸歴八十六年 感謝の日々に思うこと」『歌舞伎 研究と批評10』平成4年12月15日)

裏門

裏門の勘平の性格

服部幸雄「古い錦絵に、あの場の勘平は荒若衆で、荒事で演っているのがあります。」

17羽左衛門「股立を取ってるでしょ。」

服部幸雄「時代物の浄瑠璃によく出てくるそういう気分の役だったのでしょう、本行のほうでは・・・。ただし、あの場面だけです。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

師直と勘平の早替り 8市川團蔵

ずっと以前、父が師直と勘平を勤めたとき、三段目で切られ、舞台が回ると麻裃、股立を取った勘平で立っていました。見物はあまり早いので驚いたそうです。それは舞台をゆっくり回すうちに衣裳と鬘をつけ替え門に穴をあけて、そこに鏡があり裏向きで門をたたいていると見せかけ、顔を拵えていたのでした。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

 

荒事の勘平 8市川團蔵

この三段目の勘平は和事ですが、それを筋隈、大太刀で荒事で出たことがありましたそうです。それは安永八年森田座忠臣蔵で、五代目団十郎が演じたときです。五代目は外に本蔵を勤め、師直、定九郎、平右衛門、天川屋は初代仲蔵、由良之助とおかやが四代目団蔵です。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

※道行旅路の花聟

おかるの衣裳 戸板康二

道行のおかるの衣裳は、御殿模様の型と、矢絣の型とふたとおりある。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月) 

 

おかるの衣裳 上村以和於 二川清 清水一朗

上「この前菊五郎幸四郎と踊ったときにも矢絣に模様が入ってた。矢絣なら矢絣、裾模様なら裾模様とすべきですね。本来は矢絣のもので、大阪型の「裏門合点」から逃げて行く訳ですから。」

二「梅幸までは矢絣でしたよ。」

上「歌右衛門の系統が裾模様で・・・・。」

清「何であんなことをやるのか、お浚いだよあれじゃ。」(「『仮名手本忠臣蔵』の役々」『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

おかるの衣裳 二川清

志野さんが、六代目梅幸は御所鴇の大時代な衣裳だったけど、今はみんな五代目歌右衛門系統の小豆色になったのは、少し淋しいと言われていますが。(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

9澤村宗十郎のおかる 二川清

宿下りの御殿女中を喜ばせようと書いた場面ですから、たいした中身がないんですよ。それにしても宗十郎辺りが踊ると、お軽の気持ちがちゃんと出るんで、菊五郎もあそこらまで行って欲しいと思います。お辞儀一つにしたって、玉三郎菊五郎はただ頭下げてるだけ、宗十郎が演ると本当にしみじみとした心持ちが出る。(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

鷺坂伴内 上村以和於 清水一朗

上「市村鶴蔵は珍しい型で、進物場の装で出てきて引き抜いた。」

清「八代目中車が演ってます。花道で引抜いていつもの拵えになる。これはご馳走で演る役です・・・この前も言ったけど、幕切れが決まっちゃった。伴内が下手から閉まる幕を引く型に。」

上「あれ自体はいい型で栄えますけど、いつもあればっかりだからね。」

清「白鸚が伴内が演ったとき、花四天を組ませてその上に乗り、見送ったことがある。」(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

伴内の引き抜き 2又五郎

伴内は、『三段目』で股立取った裃でいますが、そのまま追いかけてきたということですから、裃で出て、振りの中でそれを取ると、鹿の子の襦袢になるという演り方もあります。いまは、初めから襦袢で出てきますが・・・・。伴内の役は、いい役者さんがお付き合いで出るということもあります。「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成1310月 演劇出版社

 

二人の出 田村素

板付きなのも五代目歌右衛門からですが、中幕の時はいいですけど通しだと「五段目」とつく感じがします。花道から出て花道を入る方がいいですね。(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日) 

高師直

芸談

師直については五代目菊五郎の「尾上菊五郎自伝』に詳しい。

 

・・・歌の読み方・・・

 

短冊を読む 2市川左團次

例の歌を読む処も余りいろんな人があって、四五度も繰返すのは可笑しゅうございますから、今度は一番先にすたすた読んで、変だという処で読み返し、下の句を半分口の内でいって、一番末の文句を一寸聞えるように云う事にしてやっています。文箱も坊主が持って出るというのもありますが、寿美蔵と相談して自分が持って来る事にしました。其れから「あずまえびすの知らぬ事」という師直の白がありますが、「あずまえびす」は師直の事という話があったので、其れも悪いと思って止め、又最後に短冊を見て此れがある為に心持が悪いと黙って判官の顔に打付け何んにも云わぬ事にしました。(『歌舞伎』第111号 明治42年10月)

 

6尾上梅幸

三段目足利館殿中で師直の読む短冊は一度師直が袂へ入れますが、短冊は三ツに折るべきもので之を二ツに折ったり四ツに折ったりすると其人の芸の拙ないのが知られます。
顔世の手蹟を褒められる件りは東京座で私が判官を勤めました時は、師直が三好屋(団蔵)の叔父さんでしたが、伴内が居残って居て『斯う伴内、見事な手蹟だ』などと云っていました。それから『さなきだに、おもきが上の小夜衣・・・』の歌を一度読んでオヤという気持で、二度目には『我が夫ならで』から読直して、それから伴内を奥へ入れました。築地の叔父さんは『松花堂を学ばれたな』等と云いました。
此時の大序には三好屋の師直が腰をかけて居ました。(『梅の下風』演劇出版社 昭和28年10月)

 

8市川團蔵が記録した、7市川團蔵の師直

三段目は若狭之助について這入った伴内が出て来て、師直が捨てぜりふをいって頭を下げている袖を引くので、若狭が奥へいったのに気づき小声で、「アノ小僧め、ほんとに切る気だったなーーイヤ馬鹿ほどこわい者は無いナ」と苦笑いをする、そこへ判官が出ます「伯州殿遅刻でござるぞ」と伴内にいわせる。文箱の条りになって、渋い顔を急に解きます。短冊を読むときは、上手で伴内が燈りを見せ、一度はすらすらと読み、筆跡を誉め、二度目に「ーーわがつまならぬつまな重ねそ」でちょっと気を変え、「ーー此歌に添削とは、ムム」から段々顔色変り、判官を見ると伴内は気味悪そうにこそこそと這入ります。切りつけられる所は、「その用は」と判官がいうので、「ナニ、ナニ」と皮肉に聞えぬ体に耳を顔の近くへ出す、その隙に切られるという演方で、だいたい時代でなく地でいきました。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

 

歌の読み方 17市村羽左衛門

「松の廊下」で私が六代目から師直の役を教わって演った時に、顔世から届いた短冊を読むのは黙読なんです。最初は声を出さない。それで判官に「お手前、この文御覧じたか」「いいえ」となってから「さなきだに・・・」と声を出して読んで聞かせてやるという肚なんです。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

師直の立場 3實川延若

「さなきだに」の歌は、普通、どなたも声を上げて読みあげますが、あの返歌は、幸いに師直の恋を刎ねつけたからよいが、もし逆だったら、判官の工合いの悪さはありますまい。人の女房への付け文ゆえ、返事の如何にかかわらず、音読は出来ますまい。また判官への病いづかせは、コミッション不足よりも、遙かに悋気嫉妬に出発しているのと違いますか。私はそう考えて演っております。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

※2延若の型 志野葉太郎

二世延若ははじめ黙読して直ぐその意味に気付き、判官に「この歌を御覧じたか」と言ってから声を出して読んで聞かせるというやり方で、六代目もこれに近かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

7坂東三津五郎が見た7團蔵の師直

「三段目」でも、様子が厭な感じで、それで下品ではありませんでした。「鮒ええ」のところなど、重味があって、あれなら判官が怒るだろうと思えました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

師直は判官に怒ってはいけない 17市村羽左衛門

師直は判官に怒ってはいけない。「この野郎、怒りやがったな、もう少し驚かせてやろう」と、からかう気持ちがあって、向こうが怒ってきたな、と思ったらピシャッと押えつけて、また顔色見ながら、「この野郎、もっと怒らせてやろうか」という気持ちで演らなくてはいけないと言われました。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

懐紙の上を叩く 17市村羽左衛門

判官を師直が中啓で叩く時は、懐紙をめがけて叩くと音が鳴るという。(「文楽と歌舞伎に見る 仮名手本忠臣蔵山川静夫氏インタビューより)

 

6尾上菊五郎

それで判官が刀を抜き掛けると、利き腕をポンと打って、『殿中だ』と言って、四つ這ひに上手へ逃げて振向くのが『テン』と太鼓の掛りで、『サア斬らッせい』となって傍へ行き、判官の刀を脇の下へ抱込むように、身を押付けて寄り掛って行くのが紋切形であり・・・(後略)(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

※こうした廉々が極まると、散文的にならずに芝居が面白くなると思われる。 

 

17中村勘三郎 

師直は岳父(菊五郎)のやり方です。豊ちゃん(松緑)がよく知っていますから、今度改めて訊きに行き、自分でやって見せてくれたので、その通りにしています。尤も、姿見はやめ、喧嘩場の最初の辺りを大紋でやるのも止しましたけれど・・・。(中略)三段目で六代目式に姿見をやるのを止したのは、大序では合引が使えるので形が付くのですが、ここでは合引が使えないので、あの大紋姿で合引なしではペチャンコになって恰好が付かない為に止したのです。
おやじさん(六代目)の師直は大層うまく工夫されているので、例えば、「本性なら、御身や、どう、する、よ」でグッと判官に顔をつきつけ、判官を見ると、判官が凄い感じの顔になるので怖くなって退がる、そうすると判官が刀に手をかける形が付けられるんです。そうしないと師直の体が邪魔になって判官は刀に手をかけられませんからね。
「殿中だ」をハッキリ上手の方へ向いて云うのも岳父の型です。あれは普通上手へ向いて云うにしても捨科みたいな感じになる方が多いのですけれどね。(加賀山直三/編、『演劇界』昭和33年4月号)

 

「粋様め」と「御案内」 13片岡仁左衛門

若狭助が「さほどでもござらぬわえ」と払う、これも変りありませんね。(中略)で、「それご案内ご案内」と。それから今度は師直について言っておきますけれども、あそこは一番おしまいのセリフがね、「粋め、粋め、粋様め」というのがしまいで、「御案内御案内」というのとね、「粋め、粋め、粋様め」を先に言ってしまうのと二タ通りあるんです。師直が仕勝手で言うんで。あの私たちの方は丸本仕立てに大体近い方だから、「粋め、粋め、粋様め、御案内々々々」〽主従寄って」と、こうなるんです。そうすると、それで、あの、パッと払って、此方を師直の方を見てますから、右の肩をね、こう入れるよう顔をしてジッと見ながら上手へ廻って、つかつかと出て、行って、グッと睨んで、黙ってフウッと入れば、一番いゝ型なんですがね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

その用は 

17羽左衛門袴の裾を踏みつけられたあと、「その用は」と言う時、離れたら斬られてしまいます。「「その用は」で顔と顔が真近にあれば斬れません。これは自分の考えです。

2又五郎「うちのおやじさん(初代吉右衛門)も、耳ほじりながら「なぁに」と顔を近づけました。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

4市川左團次

三段目で判官とのやり取りで、市村(十七世羽左衛門)のおじさんに、師直は判官に問題を起こさせようと、相手の顔色を見ながら、こう言えば怒るか、次はこうすれば怒るとかいじめるが、大名同士なんだから喧嘩に見えてはいけない、と教えられました。喧嘩にならぬように心して演じます。(歌舞伎座パンフレットより 平成25年11月1日)

※喧嘩場と言うものの、あそこは喧嘩の場面じゃない。師直は判官より高い身分。立場も気持ちも対等ではない事を忘れないよう言われたとのこと。(平成28年10月国立劇場パンフレットより)

研究・批評

カシラ

大舅(胡麻の惣髪、掴み立て、動きのフキ眉)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

・・・歌の読み方・・・

川尻清潭

「さなきだ」の短冊を読む処、一度黙読して二度目に調子を付けて読むのもあり、この時に指先で眼頭のヤニを拭いたり、又は、鼈甲の大眼鏡を掛けて見るのもありますが、眼鏡はあとの邪魔になるので、遣わない人が多いようです。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

二川清 上村以和於  清水一朗

二「渥美清太郎さんだったかが、黙読して後一回しか読まないのが本当だったって言ってますね。」

上「延若の芸談だったかに、『何が書いてあるか判らない訳だから、迂闊に読んではいいけない。だから一回しか読まない』って、これも一理窟だけど、お客に判らしてくれなきゃ困るんだ。矢張りあの歌の『褄な重ねそ』の謎を徹底させて置かないと。」

清「和歌は百人一首の読み方から言って、下の句を二度読んでもいいと思う。二回目をきちんと読んで最後の『褄な重ねそ』を突っ込んで読めば、その意味が取れるはず。頭から三遍も読んじゃおかしいよ。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)  

・・・短冊の扱い・・・

三木竹二

(初代市川猿之助の師直は)顔世の短冊を中啓で開いて載せるのは面白く、燭台の下(雪洞の時もある)で斜向きに見る形は絵になっていた。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月) 

※中啓を扱うのと、燭台を使用するのが変わっている。

補足)手燭の場合も

此場で伴内に手燭を持たせて出るのは、勿論正七つ(今の午前四時)の暁の寅の刻を見せたのですが、その蝋燭の灯で顔世の短冊を読む事にしてあって、眼鏡を遣うのもありますけれど、跡で邪魔になるでしょう。(六代目尾上菊五郎 『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 

戸板康二

この短冊はあとで、喧嘩のおわりに、師直が途中からひねって判官に投げつける小道具になっている。しかし、ここまでする必要も、ほんとうはないようだ。戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

※短冊を投げるような師直は見たことがない。昔はそういう演じ方もあったことがわかる。六代目まで手順として記録に残しているが、現行で演らなくなったことに言及がないのにはどうした訳か。

例)

初代市川猿之助の師直 三木竹二

「切れ切れ切れえ」の体を判官へ持たせ掛けた形「若狭殿へ」で膝へ手を掛けて立上る途端(はずみ)に袖口から短冊を落し、それを円めて投付ける(はこび)「何ぞ用か」で振向いた形は、いづれも好い。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月)

六代目尾上菊五郎

結局短冊を両手で握り捻って、『東夷の知らぬ事だ』と判官へ投付けて悠々と行掛けるのを、袴の裾を踏まれて切られる段取で終わります。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 ・・・鮒侍・・・

鮒のたとえ 川尻清潭

それから憎体口の台詞の中では「御前の方はお構いないじゃまで」とか「勤める処はきっと勤める武蔵守」とか、「如何にハングワン」と呼掛ける処など、それぞれ極り所となっていますが、判官を井の中の鮒に譬える所で、鮒の死ぬ有様をして見せるのに、両手を横伸して手先を、鰭のようにブルブルと震わせるのは古い型。別に中啓をぶらさげて、鮒に見立てるのを、七世中車が見せたことがありましたが、それは感じが出ませんでした。」(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

※七代目中車(七代目市川八百蔵時代)の明治40年11月歌舞伎座の一日替わりででの師直の演技が『観劇偶評』記録されている。

補足)六代目尾上菊五郎

鮒の死ぬ有様をして見せるのに、両手を横に伸して鰭の動く形にするのと、乃至は中啓をぶら下げて、鮒に見立てるのとありますが、前の方が古くから行われている型です。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 

志野葉太郎が見た師直 7中車 2延若 7幸四郎

判官をいじめる台詞は以前は我流で饒舌なのが多かったが、最近は無難な方に統一されてきた。(中略)ここの師直は大序に比べると出頭第一としての品格にウエートがかかってくるからである。その意味で七世中車のは正に規格品的であった。(中略)〽出放題」でも打たんとして中啓を振上げるが打つのを止め、左手を後ろに廻し身体を大きくそらすので右手が判官を指す形になるといった具合に行儀のいいこと無類といってもいい師直だった。だがそれだけに師直の人間描出には不満のあるのは免れず、さりとて二世延若の油っこい好色味もここでは品位に欠け、七世幸四郎は我流が多すぎるといった具合に、七段目の由良之助同様、歌舞伎の中で最も至難な役柄であることを思わせる。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

鮒侍だ 〽出放題」

7八百蔵(7中車) 右の中啓を振上げ、気を変えて左を下へ突き、中啓で判官をを差して笑になる。

1猿之助 「鮒侍れえだ」で右の中啓で判官を指して、左を口に翳して笑ふ形(後略)(三木竹二『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月)

2延若 右手の中啓を左手に当て、それを左膝に立てて極るのが変わっていた。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

今の芝居の物足りなさ 二川清 上村以和於 清水一朗

二「鮒侍の件など吉右衛門は平坦口調なんですね。」

上「四段目もそうだけど、師直に限らず全体的に丸本物の芝居じゃなくなっている。」

清「『鮒侍だ』で中啓で判官の胸を打って、師直が後ろに反るきまり方、勘三郎はここを凄く大きくやってる。処がどっちもちまちまと、團十郎は後ろに左手を突いてないほど。吉右衛門は少しは反ってやってたけどやや斜に構えてる。そういう処を突っ込んで演って、役の強さを出すのが大切だと思うが、どうにも物足りない。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

 

17中村勘三郎の師直 渡辺保

渡辺保「前がとにかく陰気なんです。だから六代目の取り方も、直に手を取って教えられた松緑と、それから見て取ろうとした勘三郎との違いがある。」

児玉竜一勘三郎は、松緑に教わってるんですよね。」

渡辺保「それじゃ孫弟子ですね。」(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』47号 平成24年5月)

 

17中村勘三郎への評 津金規雄 上村以和於 木本公世

津「高家筆頭の男が這いつくばるから面白いんで、べらべら世話っぽく演って這いつくばっても、ちっとも面白くない。そこの落差が全然出ませんね。」

上「若狭に這いつくばって、その後「小僧」と言う面白さ、プライドの高い男の鬱屈がある。そこへ判官がのこのこやって来て師直にぶつかるという、そこがドラマんでね。」

木「男同士の確執がある訳でしょ。勘三郎だと何だか岩藤めく・・・。」

上「若狭よりも判官よりも師直は男性的なんです。あれは男のプライドの闘いなんですよ。」

木「勘三郎の芸質が女性的というのは語弊があるかも知れませんが、そういうやわな処が出てる訳ですね。大序から三段目にかけて。それは非常に面白いけれども、男の自尊心のぶつかり合いといったある種のテーマを殺す結果になってもいるんです。」

上「だから下世話になっちゃった、大序から既に漫才なんです。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月10日)

 

師直の勘所 津金規雄

吉右衛門は素みたいで普通の話し方のようです。武智さんが、師直は『刀を投げ出しておるぞ』って処が大事だと言っているんですよ。あそこで師直の口惜しさというか苛立ちというものが表現されないと意味がないって。それを『投げ出しておるゾォ』なんて言っては、とても後の腹立ちが活きてこないですよ。(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)  

 

拵え 川尻清潭

師直の鬘はこの方も大序も、薄く雁金を付けるのが定めですが、同じ鬘でも本蔵は、雁金を付けないことになっています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

・・・変わり型・・・

姿見の師直 戸板康二

「喧嘩場」では師直が、舞台で衣裳を着替えるやり方がある。三代目中村歌右衛門がはじめた型で、若狭助とのやりとりがすんでから、茶坊主に鏡台を運ばせ、烏帽子・大紋の正服に着替える。このあいだに、大名が次々と廊下を通るのを呼びとめて贈物の礼をいったり催促をしたりするので、俗に「姿見の師直」と呼ぶ型だが、六代目尾上菊五郎が第二次大戦の前に復活して見せた。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

※姿見の師直の手順は『五世尾上菊五郎自伝』に詳しい。着替えた素襖は「お身様に斬られれば本望だ・・・」で烏帽子を取り、それから素襖をとるのだという。

 

大紋烏帽子の師直 服部幸雄

原作では、当然ここの師直は最初から大紋烏帽子ですね。〽花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子」とありますから。歌舞伎の中でも古い時代には大紋烏帽子で演ったのですが、判官をいじめる部分の演技を写実にやるようになると、あの衣裳では邪魔になってしまうので、今のような姿に変わったといいます。ところが、見た目に変化をつけようという気持があって、「姿見の師直」 のようにあの場で衣裳を変え、その間に通る大名たちに応接するといった演出をくふうしたのでしょう。あれは、三代目菊五郎の型といっていますが、本当は三代目歌右衛門がはじめたのだそうです。「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

一日替り忠臣蔵 町内で知らぬは・・・ 富田鉄之助

昔は大名題が「一日替り忠臣蔵」をよく催したという。昭和に入っても何度か行われた。明治二七年(※原文ママ 明治十一年十一月の誤りであろう。)新富座で、団・菊・左の顔合わせに、上方の大立者中村宗十郎が加入した「一日替り忠臣蔵」が行われた。この宗十郎の師直は、例の「遅い遅い」で、判官から顔世の文を受け取り、嬉しさのあまり彼を入らせてしまう演出である。「何と町内で知らぬは亭主ばかり」などと伴内にいって悦に入り、歌を繰りかえし考える。伴内が「これは妻を重ねる・・・。判官にも貴方様にも」というのを、「黙れ」と大きく叱り、ふたたび判官を呼び出す段取りだ。これは、駒田屋芝喜蔵などもやった上方の古い演出だそうである。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

薄縁か板の間か 8團蔵の伝聞

このときに「忠臣蔵」が出て、播磨屋の師直に松嶋屋の判官で、初日に三段目で、薄縁が敷いてあるのを、松嶋屋が「アノ場は座敷ではない、松のお廊下だ、畳があってはいかぬ」といって二日目に薄縁をとらせたのです。すると播磨屋が「なんで敷かぬのだ」と苦情を出したので、訳を話すと「それはいかぬ、刃傷のあった所は、お廊下かは知れぬが、そこが芝居、第一板の間へ坐るのが、よっぽどおかしい」といって三日目に敷かすと、また松嶋屋から小言なので、掛りの者も困じ果てて前の知恵者に相談すると、「コリャ私にも工夫がない、殊に双方の立者を、へこますこともできないから、苦情の出た方の顔を立て、翌日からその通りにしたら好かろう」といい、毎日小言の聞き役ができ、とうとうその興行中、一日置きに薄べりがあったりなかったり。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和411213日)

※活歴の影響を受けた面白いエピソードだと思った。

注釈)・このとき=明治29年6月大阪角劇場 ・『近代歌舞伎年表・大阪篇』によると 師直=初代時蔵(後の三代目中村歌六) 判官=四代目嵐橘三郎 若狭=三代目我當(後の十一代目片岡仁左衛門)なので差異が見られる。

塩冶判官

芸談

〽判官腹に据えかねて」と幕切 6尾上梅幸

それから『判官腹に据えかね・・・の件りで白扇を打って後へ投げる人がありますが、之は品格を落としますから、其様乱暴なことをせずに一寸膝から手をすべらすだけにする方がよいでしょう。』

幕切に判官が左手を延ばし、右の手を胸のところで開きますが、其開いた右手の親指が丁度乳のあたりへ来れば形が好く見えます。此辺では抱止めた本蔵の顔を振返って鳥渡見なければいけません。(『梅の下風』演劇出版社 昭和28年10月)

※白扇を後ろへ投げるのは7宗十郎もしたことがある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

三段目の方が四段目より難しい 3中村梅玉

判官という役は四段目より本当は三段目がむずかしいのです。四段目は自分で工夫をして無事切腹まで行けばよいのですが、三段目は終始師直の芝居を受けていねばならないのです。早く怒り過ぎては奥が持ちきれませんし怒るキッカケがわるく遅すぎても芝居が面白くなりません。(『演芸画報昭和13年11月号)

 

7坂東三津五郎が見た5菊五郎の判官

寺島のおじさんの判官は、「三段目」になりまして。そう動きはなかったのですが、よろしゅうございました。師直に当てこすりを云われ、「あちらの喧嘩の門違いとは、判官更に合点ゆかず、むっとせしが」でむっとして笑いますが、「御酒機嫌か、こりゃ御酒参ったと見えました」と云って、それから師直がいろいろ云っています間、「貞女な奥方」で、一寸下を見たりして、最初の間は、「何を云っているのか。」と云った調子で、段々段々怒って来るところが、よろしゅうございました。それから例の「鮒侍だ」になり、「判官腹に据えかねて」のときは怒りますが、まだ斬るほどには怒りません。それで、次の師直の「本性だ、本性なら御身ゃなんとする」で、「本性なれば」と云って、刀を抜きかけますが、このときは、師直へ怒りますが、刀へは思わず自然に手がかかったと云うやり方でした。師直の「殿中だ」で、今も六代目がやりますように、刀を袖へ隠しますが、ここは人によると、刀の下げ緒を、柄に捲くやり方もあります。それで師直が、「切れ切れ」で体を判官の方へ寄せますが、そこで判官が我慢するところが、またよかったのです。「暫く暫く」と、少し向うへ押して、あやまります。「その手は何だ」で、「この手はーー両手を突いて」と云うのが、これは本当に口惜しいのを堪えているようで、「お詫び仕る」の台詞は、下へ押し付けて、小さい声でした。成程、寺島のおじさんのを見ていますと、口をきかなくても、堪えてあやまっていると云うのが、はっきり分かりました。五代目も、「あすこで、大概見物が褒めるが、見物に褒めさせてはいけない。見物に同情させなくてはいけない。」と申しておりました。
判官が御馳走の役を「拙者めに」と云いますのを、師直が、「イヤ、若狭どのに」のときには、これは本当に怒ります。そして短冊を放って、「東夷の知らぬことだわ」で、長袴の裾を踏まえます。「まだ用があるか」で、「その用は・・・」と云うときには、もう家を身も構わず、本当に斬る気でした。そこで師直はに斬り付け、止められて、刀を放りますが、そのとき、手は握らず明け放しで、「上を下へと」で、師直の方へ気をやりながら、幕になるのです。幕切れで、判官が、一寸後ろを振り返って、誰に抱き止められたのかを見る人がありますが、それは理屈ですが、気が抜けますから、「仮名手本忠臣蔵」ではどうかと思います。寺島のおじさんも、後ろは振り返りませんでした。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

※本蔵を見返すことに否定的な意見が興味深い。

 

文箱について 服部幸雄 17市村羽左衛門 2中村又五郎

服「判官が文箱を師直に差し出しますね。あれは、いま普通に演る音羽屋の型だと下手の襖から茶坊主が出て来て差し出します。本文は、判官が手に持って出ます。そういう演り方もありますね。」

羽「あります。」

又「大阪の型でしたかね。」※13仁左衛門は自分で持って出る演出だった。

服「どうして音羽屋の型では自分で持って出ずに、茶坊主に持たせることにしたんでしょうね。」

又「御主人に持っていかせるのはおかしいですよね、理屈から言って。「裏門」で腰元おかるが文遣いになって持ってくるんですから。」

服「おかるの手から勘平に渡されて、勘平経由で直接判官が文を持ってきて師直に差し出すことになってる。だから、師直が「この文御覧じたか」と問いただすこと必然性があります。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

喧嘩場の判官 7尾上梅幸

この場の顔は、少し刷毛で砥粉をかけ気味にし、目ばりもほんの少し墨を加えて濃くして居ります。そうです。大序の時より、すこしキッパリとした加減です。ここの判官の中心は、「大名の怒り」の一言に尽きます。はじめは、「この爺い何をいう」ぐらいの気持であしらっていて、「鮒侍だ」あたりでカァッとなる気持です。ツー、テンで刀に手をかけ、ジリジリと輪を画いて寄ってゆき、師直と交互に表裏に替わる形は、音羽屋独特の行き方です。なお、刃傷の幕切れで抱止められるとき、ちょっと後ろを振り返って本蔵の顔を見るのが、後の四段目で、「加古川本蔵とやらに抱き止められ」につながるひとつの心得になっています。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

梅幸から教わったこと 7尾上菊五郎

大序の判官は大名らしく鷹揚に演じ、三段目でもピリピリせず、師直と対等に喧嘩しているように見えてもいけません。段々と怒りをためて、『気がちごうたか』と声を高く言って『武蔵守』と低く言い、師直役に『黙れ判官』と大きく受けてもらうと好い芝居になる、と父(七世梅幸)に言われました。(歌舞伎座パンフレットより 平成25年11月1日)

 

刀が突き刺さる型

服部幸雄「斬りつけるのを本蔵に抱き止められて刀を投げつけますね。あれが上手の柱に突き刺さってピッと立つ演り方がありますね。」

2又五郎「昔はいつもそうでした。」

17羽左衛門「仕掛けになっていて、持ち直して投げると、柱にピッと立つようになっています。」

服部幸雄「この頃、演らないことがありますね。」

2又五郎「たいがい演りますけどね。ただね、あれ、刀を放るのが大変なんですよ。上手の屋体の中にちゃんと入ってくれないと、刀が二本になってしまいます。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

※”持ち直して投げる”というのが難しいのであれば、「盛綱陣屋」のように投げる振りをして処理すれば間口が広く、上手屋体まで距離のある歌舞伎座でも演じられるのではないか。芝居としての風情を求めたい。

 

刀がささる型 8坂東三津五郎

以前は刀をポーンと放ると、上手の柱にブスッと立ってね、あれなんかおもしろいと思うんだが、最近やらないことがありますね。ぼくが関西へ行く頃までは、いつもやってました。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

研究・批評

カシラ

アオチとヨリ眼の検非違使(櫛洗い、油付、前はし箱)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

・・・文箱・・・ 

戸板康二

茶坊主が下手から持って来る近頃の型よりは、花道の出で判官自身がもって出る型のほうがいい。しかし、じつは必要に応じて、後見がうしろから(人形の場合のように)判官に渡してもいいのである。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

 

判官がおかるから勘平を経て届けられた文箱を、自分で手に持って出る人がある。十五代目市村羽左衛門はそれであったが、見た目が「本朝廿四孝」の御殿で勝頼のはいる時(謙信に文箱を渡されて使いに行く)と感じが似る。六代目尾上菊五郎の時は、下手から茶坊主が出て渡す。岡鬼太郎は「後世のお家狂言臭くなる」といい、自分で持ってくるほうを「理窟なしでいい」といっている。しかし、本文には「袂より文箱取出し」とあるので、懐中して出る型も、あったらしい。これは、じつは人形で当然するように、後見がうしろから渡してもいいのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

文箱の受け渡し 志野葉太郎

6菊五郎 判官が舞台にくると同時に下手から茶坊主が持参する。

15羽左衛門 「何かは存ぜねども奥顔世より文箱が参っております云々」と披露してから手を叩いて茶坊主を呼び詰所に取りにやらせるという工夫のかかるやり方。

1魁車 他に茶坊主が花道から持参するという。

3梅玉 単刀直入に自分で持参

懐に入れてきたことにして後見から受取るというやり方もある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※15羽左衛門に対する文箱の記述でも、見た年度の違いによるのだろうが戸板氏と志野氏で記録が異なることに注意。昔は演じ方を試行錯誤していたことが窺える。

 

・・・本蔵を振り返る・・・

幕切れ 川尻清潭

前側から判官をとめる大名は、膝を突いて背を低くして判官の上半身を見物へ見せること。同時に判官は、手先を開いた両手を上手へ伸ばし、体を揉む科をし、無念の表現に、指先きを握るのもありますが、幕切れには上手向きの顔を稍正面にして、幕を締めるのが本格な歌舞伎のやり方です。又、判官が抱きとめられる時、一寸後ろを振り返って、加古川(或は梶川)の顔を見るは、近年に行われ始めたことですが、相当に重く用いられて、一つの型になっています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

戸板康二

判官が切りつけ、師直が上手へ逃れる。判官の刀が上手の柱に立つのは古風な演出である。この時、判官の俳優は抱きとめた加古川本蔵の顔を、観客にも印象づけるように、ぜひ振りかえってはっきり見る必要がある。それが、九段目の本蔵の死に直結するからである。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

 

昭和23年2月大阪歌舞伎座 7澤村宗十郎・判官の評 三宅周太郎

「この手」をついてを、「両手」をついてというのは困る。それ以上刃傷の幕切れで、抱きとめた本蔵の方をちらと見ぬのは判官の性根に欠ける。これは一体誰が自分の邪魔をするかと、芝居をして芝居にならぬようとめ手を見るのが、判官の一つの心得になっているのだ。壽美蔵は流石」にやっていたが。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号 昭和23年3月5日) 

 

(12團十郎の判官の)本蔵を見ることについて 清水一朗

「抱きとめられて本蔵の顔を見るのも口伝にあることなのできちんと見る。見てるけれどこれは前の合評会でも言ったけど、顔を見るのは『邪魔をするのは誰だ!』って心持ちで見るんであって、見る型だから見るんじゃないはず。それがただ見るだけとしか思えない。」(二川)「今は皆そうですね。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

 

見返ることについて 佐藤俊一郎 上村以和於 津金規雄 清水一朗 二川清

佐「幕切れに判官が振り返るでしょう、あれはいけないっていう人がいる。山口廣一さんなんか。」

上「あれは六代目が教えたんだ、あそこで本蔵の顔を見ておけって。山口さんはすべからくそういう六代目歌舞伎に反対の人だから。どちらにも一長一短あるんで、その背後にあるものも含めて読まないと。確かに顔を見ておくのも一つの用意ではあるけども。」

津「ただ今の人たちだと、さあ見ますよという感じになっちゃうから。」

上「一、二、三という具合にね。」

清「梅幸の幕切れは見るのがちゃんと形になっていた。見て、向き直って柝頭になっている。」

上「この問題は前にも『劇評』の合評会で話してありますよ。要するに、あそこで一番大事な性根は師直を追撃することなんで、その時に本蔵の顔を見るのは一つの心得なんです。」

清「追撃が甘いから刀を投げるのがおかしくなってる、ただ襖の間に放り込んでいるみたいで。刀が柱に刺さる演出はいつの間にか止めてしまったが、あれも一つの形容で面白かった。」

二「昔なら投げる振りをして、きちんと決まったんでしょうね。」

上「幕切れも追いかける姿勢、つまり『対面』の五郎と同じポーズをしなきゃ。その後、また動くのはいいけど。師直を追いかけることは当然であって、ただその際に振り向くのが心ある者の用意だぞ、嗜みだぞという意味なのに、そこだけが残って追いかける方がどっかへ行ってしまう。」

清「その辺は梅幸だときちんとしていたが、菊五郎になるとごちゃごちゃしてしまう。口伝がだんだんその通りに読まれてなくなっている。」

津「当時は追いかけるのは自明だったのが、分からなくなってしまい、付けたりの方が大事だぞと、そっちへ中心が行ってしまった。」

上「書かれてないことの方が本当は大事なんだ。分かり切ったことは書かなかったんだから。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

刀を刺さるのをやめたのは・・・ 清水一朗

あれはいつから止めたんだろう。勘三郎の判官は演っていたと思うが、梅幸は演らなかった。処がいつの間にか勘三郎も演らなくなった。(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

・・・判官の怒りの表現・・・ 

川尻清潭

〽あちらの喧嘩の門違いとは判官更に合点ゆかず、むっとせしが押鎮め」の処、昔は判官が腹立の思入れをしたり、又は〽判官腹に据えかねて」で膝を突いている扇を、へし折って後ろへ投げたり、乃至は袴を摑んで口惜しい様を見せたりするなどは、近頃殆どやる人はなく、だんだんと腹に据え兼ねる仕科の方が行われています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

三木竹二の記録(明治40年11月歌舞伎座) 

5芝翫(5歌右衛門)「判官腹に据ゑ兼ねて」の斜向の顔は間伸びになり「気が違ふたか武蔵守」の白廻は、抑揚に乏しいので押が利かぬ。「師直お待ちやれ」は女になり「その用」で肩衣を脱いで懐紙を下へ置く科の暇取るのは気が抜け、短刀を投付けての無念の表情は、例の笑顔になつて終つた。

6梅幸 「判官腹に据ゑ兼ねて」で一旦正面に直つて、「気が違ふたか」で裏向きになるのは形が変わつて好く、その後は先づ一通といふ処。

3訥升(7宗十郎)それから師直に嬲られる間、扇を突いてジツと科は引立たず、上手斜向になり過ぎたのも場面の配合上面白くない。「両手を突いてお詫申す」の手を(ふる)はしながら突くのは好く「その用は」の気組は充分、幕切上手へ気を掛けて体を顫はせながらの表情も好い形だ。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月) 

〽判官腹にすえ兼ねて」で扇を後ろへ投げていた。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

15羽左衛門 ここでツケを入れていた。後の「両手をついて」(「この手をついて」と言わない)(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

大阪方 梅玉、魁車は表情過多のためか鮒の話の間から怒りすぎるきらいがあった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

辛抱和事としての判官 加賀山直三

判官は、大大名の怒りと云つた歌舞伎芸味を見せるのが眼目である(中略)この役は、元来、和事の大大名を表現する型として代表的な役だつたのであらう。それが、この忠臣蔵に限つて、他の丸本時代狂言より飛び離れて写実化した演出法を採用する様になつた為、純和事から可成り和実に近付いて行つたものではないかと思われる。併し、根本は飽く迄も和事なのだから、変にカツチリと緊張した、いろけや粘りツ気の薄いのでは困る。大名らしい鷹揚さ、ふくらみ、穏和さ、その穏かなお坊ちやんの大人化した人物が不当に虚められ侮蔑されるのをじッと辛抱して居る哀れさ、それだけではいけないのである。歌舞伎の貴族の辛抱和事役のいろけと粘りの芸味と、その芸味の持つ風情と感覚が、どうしても不可欠なのだ。菊五郎以後の判官にはそれの不足が多い。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

紀伊国屋音羽屋系の判官 加賀山直三

今にして思へば、先代宗十郎の判官は、例の和かな役だと逆に無闇に強がり、いきむ癖はあつても、そのぶち壊し的な悪癖をわざと見たいに積み重ねつつも、結局ぶち壊しきれぬ自然のその味が底にデーンと腰を据ゑて居た貴重さを、私はつくづく思ひ出されてならないのである。十五代羽左衛門のは、辛抱役の粘りのある和か味の点で外れて居た代りに、古くからの紀の国屋系と違った音羽屋系の水気に長所があつた。菊五郎のはその音羽屋系の水気を、彼一流の心理歌舞伎芸で殊更艶消しした芸味であり、芸の巧味は十二分ではあつたが、私は之を採らなかつた。今ではこの系統の人として梅幸が絶好の人と云へるが(後略) (「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

リアルさ一方への疑問  二川清 上村以和於 津金規雄

二「七代目宗十郎なんか、そこで大見得切ってツケ入れたのを、三宅周太郎がいかにもひどい演り方だってけなすんですよ。それで六代目が「殿中だ」でハッとやる処は、素晴らしいって絶賛する訳。」

上「それは三宅周太郎が善意でやったことが、悪い結果を招いたんです。確かに六代目はそういう処のイキは良かったんでしょうけどね。」

二「そのリアルさが受けたんですよ。大正文化人に。」

津「今はそのリアルの逆を行かなければいけない時代ですよ。むしろ古風な芝居風な演り方をもう一回復権してみないといけない訳で、だから劇評の読み方も当時の三宅さんの読み方を、ただ文字面だけじゃなくて、何故そう言ったのか、その前にあったことは何なのかまで読まないと、分からなくなります。」

二「だからツケ入りの見得をやったって、今はいいと思うんですよね。」

 上「『忠臣蔵』東西競演で、鴈治郎仁左衛門が演った時、ツケを入れなかったかな?」(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

判官の刀

江戸では判官も若狭も黒柄の刀をさす。関西は白柄だという。江戸は武士に遠慮したという説。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

明治34年11月〜12月 京都歌舞伎座 8市川團蔵の記録 

このとき、大阪で芸の虫といわれる、璃珏さんが勤めたのですが、浪花座のときの丸々とした伊丹屋と違い、ほっそりとした小男で顔は火傷で引釣のある方ですから、関西で判官は男前の好い人はやらないのかと、私はおかしく思いました。

その豊嶋屋が、役のきまったとき、伊丹屋の宅へいき、「今度顔見世で判官を勤めますが、初めて一座する三河屋さん故、呼吸がわかりません。どうか教えて頂きたい」と頼むと、伊丹屋は笑って、「他の人なら教えるが、お前さんにはどうも」といったそうです。

初日が出て、父が「伊丹屋の判官は、大阪式でうま味があり、豊嶋屋は江戸式でうまい、殊に三段目で(昨日鶴ケ岡ではこんな様子がなかったが、今日はどうして、こうつらく当るのか)と心中に思い、初から立腹しない所が良い」といっていました。

このとき父は、京都木屋町に家を借り、東京から京、大阪へ荷物を送るため、顔見世打揚げ後、私は東京へ帰りました。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和411213日)

注)・このとき=明治34年11月〜12月京都歌舞伎座公演。・璃珏さん=四代目嵐璃珏 ・浪花座のとき=明治34年10月大阪浪花座公演。 伊丹屋=四代目嵐橘三郎 

  

「殿中だ」か「鯉口三寸」で刀を隠す 二川清 上村以和於 清水一朗

二「確か六代目の型で今梅幸もそうですけど、『殿中だぞ』で刀にてをかけたままジリジリと寄って行く。昔の三宅周太郎さんの劇評みると、六代目は『殿中だ』でハッとして袖で刀を覆ったとある。処が晩年は今皆がやっているみたいに変えたらしい。」 

上「つまり『殿中だ』で刀を抑えない判官はとろい訳ですよ。『殿中で鯉口三寸』って言われてからハッと気付くんじゃ遅い。」

二「今のやり方の方がやりいいでしょうが。」

清「どんな型にしろ、演る人に合うかどうかですね。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

桃井若狭之助

芸談

花道の出 2中村又五郎 17市村羽左衛門 

又「播磨屋(初代吉右衛門)の演り方では、若狭之助の出は長袴の紐を締めながら出るんです。」

羽「私が教わった九代目の型というのは、『対面』の五郎みたいなんです。揚幕からツカツカツカと出てきて、雨落の位置で、ヒイフウミイとジリジリジリ寄ってくる。そのかわり、真っ直ぐ本舞台へ入ってしまいます。」

又「播磨屋も後ろを振り向かなかった。ツカツカツカと出て来て、揚幕寄りの七三のところで、袴の紐を締めてきまるのがテーンになるんです。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

15市村羽左衛門の出について語る 13片岡仁左衛門 加賀山 11田中傳左衛門

仁「十五代目は打ちッぱなしですよ。だから花道は昔の七三では止まらないで、ずっと今の七三の所までいっちゃうんです。」

傳「これは仲町の宗之助さんもそうでした。」(初代澤村宗之助

仁「そうです。それが一般の昔の型です。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

9團十郎の喧嘩場

17市村羽左衛門

あそこの若狭之助が、九代目(團十郎)と他の方とでは違います。九代目のはほとんどせりふを言わない。「馬鹿な侍だ」と、普通は言うんですが。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

7坂東三津五郎が見た九代目團十郎の若狭

「三段目」では、師直が御機嫌を取るので、当てが外れ、「これはと思えど是非なくも」で、「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にてーー」から、「武蔵守は犬侍だ、以後はキッと慎しまっせい、馬鹿な侍だ」と云うところが、九代目の若狭之助はよろしゅうございました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

馬鹿な侍だ 13片岡仁左衛門 加賀山直三 11田中傳左衛門

加「馬鹿な侍だ」は言わない方がいいんですか。

仁「えゝ、言わない方がいゝんです。ところが、大阪では、それは大変に長セリフが入るんです。純上方の演出だとね。〽これはと思へど若狭助」でツツーッと返って坐って、「御執頭それへ出さっせい、出さっせい、ズズズッと出さっせい。鶴ヶ岡に於いて拙者への悪口雑言・・・」と、そこですっかり喋舌ってしまう。

傳「あの宗之助さんがそうでした。仲町の宗之助さん・・・・・。」

仁「言いましたか。」

傳「えゝ、言いました。」

加「時々その型の人が出ますよ。それから、具体的なことは一寸忘れましたが、変っているなアと思った印象では、お宅(松嶋屋)の十二代目の若狭之助。何か、いつものとは随分変わった印象でしたね。」

傳「あれ、宗之助さんの場合はですね、もうすっかりしゃべっちゃって、「犬を切る刀は持たぬ」そして「馬鹿な侍だ」と。」

仁「犬を切る刀のセリフがあり「犬だ、犬だ、犬侍だ、身不肖なれども若狭助、犬を切る刀は持たぬ。以後はきっとたしまつせい。ばばばかな侍だ」という。しかし、東京の方は大体言わないことになっていますね、この頃は。

傳「言わない方が多うございます。」

仁「言って悪いことはないけれども。言わない方がいゝと岡先生も言っていられました。」

加「あの「馬鹿な侍だ」は、十五代目(羽左衛門)は言ってませんでしたから。」

仁「いゝましたよ。私はあのセリフをいうのも悪くないと思うんですが。」

加「あんまりくどいのは嫌ですけれどもね。」

仁「あれが、お客が喜ぶところなんで・・・・。」

傳「少しぐらい悪口雑言いわないと、何かお客さんの方が胸に落付かなくなって。・・・(笑)」

加「明治の腹芸式になりすぎる感じがするんでしょう。」

仁「だから、私はね、一遍ね、東京では好まれないか知らないけれども、そういうのをやる「忠臣蔵」を、一遍見ておいて欲しいと思います。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)  

研究・批評

カシラ

アオチとネムリの源太(油付、武士髷)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

  

團十郎の若狭 川尻清潭

師直が帯剣を投げ出して詫び入るので、若狭は怒る張合いも抜けて、「馬鹿な奴だ」と言う心に、「ブツ」と吹いて長袴を蹴立て、早舞いの太鼓で入るのは、団十郎の型として、今日に伝えていますけれど、中には、「犬侍」の台詞を言う人、又、単に、「バ、バ、ばかな侍だ」と、言い捨てて入るのもあります。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

 

理想の若狭之助 加賀山直三

腕と人柄と役者振の三拍子が揃つて居なければならず、その点では十五代目羽左衛門こそ殆ど理想の若狭助役者とも云ふべきであつた。殊に彼のよかつたのは、前述、花道七三での一廻りして片膝ついてのきまり迄の殺気に水気を含んだ情緒を、自然の味に加ふる芸の鍛錬でジックリと見せたことに在つた。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

15市村羽左衛門の若狭之助 戸板康二

若狭助の癇癖をうまく演じた十五代目市村羽左衛門は、ここで一旦上手に行きかけ、師直の前へ戻って来て、もう一度鶴ヶ岡(大序)のことを云い立ててののしる入れ事をしていたが、これは余計なことのようだが、心理のバランスからいうと、それを平伏したままきいていた師直が、若狭助の行ってしまったのを確認してから、「小僧め、もう行ったか、馬鹿ほど怖いものはないのう」と師直が低い声でつぶやき、せせら笑う照応がよく利くのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

若狭それぞれ 

9團十郎 

何か言おうとして怒りがこみ上げてプッと吹くだけで入ったという。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日) あるいは、

「馬鹿な奴だ」と言う心に、「ブツ」と吹いて長袴を蹴立て、早舞いの太鼓で入るのは、団十郎の型として、今日に伝えていますけれど『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) という記録がある一方で、

「これはと思えど是非なくも」で、「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にてーー」から、「武蔵守は犬侍だ、以後はキッと慎しまっせい、馬鹿な侍だ」と云うところが、九代目の若狭之助はよろしゅうございました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月) という、結果真逆のことになっている記録もあるのである。

1鴈治郎 

「御出頭以後はキット心得さっしゃい」(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

15羽左衛門

 花道から出、見廻しながら一廻りして七三で坐り、舞台をキッとみて右手をポンと膝につく派手なやり方。昭和12年は、「先つ頃八幡宮において云々」の台詞を言った。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日) 

17羽左衛門 

團十郎型として、中程で足を割りそれをジリジリと寄せていって七三で坐るというやり方。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 ※「喧嘩場」の若狭之助の花道の出の手順は、川尻清潭の『演技の伝承』に詳しい。 

 

鷺坂伴内

芸談

エヘンバッサリ と 片足を出したら 17市村羽左衛門 2中村又五郎

羽左衛門 「本蔵に斬りかかるところのキッカケは「エヘンバッサリ」と「片足を出したら」の二とおりあります。しかし、われわれは小さい時から、俗に「エヘンバッサリ」と言ってます。」

又五郎「死んだ吉之丞(初代)の伴内は、足を出す演り方でした。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

エヘン、バッサリ 田中傳左衛門 13片岡仁左衛門

傳「それから、あのエヘン、バッサリのとこ、播磨屋の系統と二通りございますね。あの、左の足ですか、右の足ですか、片足地についた時にバッサリ、アハハと笑うとバッサリというのと、・・・・」

仁「私の父だとか、大阪の役者はね、「エヘン」とか「フン」とか言う癖のある伴内なんです。

傳「成程。」

仁「自分で意識しないから、身共が「エヘン、と言ったらバッサリだぞ」と。約束したとおりに、特に「エヘン」と言う癖がないと生きないということを言っておりました。こういう伏線を張っておかないといけないんです、だから、これは上方の役者の考えですけれど、つまりそういうように、上方の役者は、神経が細いというか、写実派なんですね。(後略)」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

「夜露はお身の毒」と「敷居が高うござる」までの関わり 11田中傳左衛門 13仁左衛門

傳「あの箱登羅さんの時代には、バッサリの方はどちらだったんですか。」

仁「サァ、あちらの方は、右の足だか、左の足だか、片足出してバッサリの方じゃァなかったかしら。」

傳「東京では、(初代)吉右衛門さんの系統は足の方でございましたね。」

仁「足が多いんですよ。大阪は。だから、播磨屋の小父さんという方は、大阪で修行して見えたから、大阪型が相当入っていますね。それから、あれは、もう御承知のように空舞台にあって、チョンで廻りまして、・・・・。」

傳「この廻る方に時太鼓。」

加「その前に、伴内の「夜露はお身の毒でござる」がありましたね。」

仁「それは、「夜露はお身の毒」ともいうし「敷居が高うござる」と二つありますね。ま、その程度のことはどちらでもいいんじゃァないんですか。「敷居が高うござる」の方は、つまり、これも先輩から聞いたんですけれども、「あなたは小心者で、こういう高い敷居をまたいたことはないだろう」ということを加味しているんだと・・・。」(中略)

傳「あの播磨屋さんの系統の方ですと、そこでまたバッサリとやりかけて、「敷居が高うござる」というと、敷居を越すとこで足を上げかけるところでバッサリ・・・・。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

鷺の見得 13片岡仁左衛門

仁「それから、鷺の見得、大阪の伴内が時にはやる・・・・。」

加賀山「市川箱登羅(二代目)がしていましたね。」

仁「束に立って、片足を上げて極まって、キッと降ろす。この見得は、鷺坂伴内の鷺から来ているのでしょう。これは大阪の方がやかましい型なんですけれども、あれは面白いと思います。上方の心ある人はやります。東京の人はやりません。(※現在ではやっています。という注釈有)」後略(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

補足)志野葉太郎

加古川本蔵これへと申せ」の伴内の見得にもいろいろがるが、箱登羅の扇を口にくわえ、両手を大小にかけ束に立っての、鷺の見得とでもいいたいような形が面白かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※扇を扱う伴内は現行見たことがない。箱登羅が活躍した上方系の役者には残っているのだろうか・・・。

 

伴内役者の心得を13代仁左衛門が語る。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

助高屋の見得 2尾上松緑

松緑が語る 〜〜戦前戦後の歌舞伎をめぐって〜〜」(昭和60年8月2日NHK教育テレビ)という番組内において、昭和11年3月歌舞伎座のビデオ映像を山川静夫氏と振返っている。「裏門」で、〽エツササとぼつ帰した」のフリの後、左足を上手へ踏み出し、両手を下手側に真横に広げる見得を、松緑は”助高屋の見得”という名称があることを語っていた。「助高屋の見得」と言うことは聞いたことがなかった為記す。映像の伴内は五代目助高屋高助(通称あんちゃん)、勘平は十五代市村羽左衛門、おかる十二代目片岡仁左衛門

研究・批評

カシラ

三枚目(油付、鶴首)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

伴内の腕 戸板康二

(進物場で)この間、師直のセリフはなく、駕の向こうで、手を叩くことだけで師直の指示を表わす。それをきいて、腹話術のように、ひとりで応答するあたりで、伴内に扮する人の腕の高下がわかる。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

・・・・エヘンバッサリ・右足を出したら・・・・

 

エヘンバッサリとアハハ、バッサリ 加賀山直三

中間と伴内とのエヘンバッサリ、又は、アハハ、バッサリも、馬鹿々々しいと云へば馬鹿々々しいが、そうした遊びもピッタリと額縁に箝るのが歌舞伎演出であると知るべきであろう。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

※エヘンバッサリ・足を出したらバッサリは知られているが、アハハ、と笑ってのバッサリは認知度は低いのではないか。

 

伴内の演じ方 川尻清潭

これの稽古をする場面、普通は伴内の咳払いの「エヘン」を合図に「バッサリ」と斬れという、即ち「エヘン、バッサリ」のやり方と、又、別に伴内が片足を上げるのを合図にするのと二様があって、トド「加古川本蔵これへと申せ」のきまりは、片手で裃をひき上げ、拳を握った片手を横に伸した構え、乃至は刀の柄へ手を掛けた見得、或は大小の柄を握った見得等があり・・・(後略)(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

敷居が高うござる・・・の生かし方 戸板康二

ことに、道具が変わる時に、伴内が本蔵を誘導して門の所まで、あいかわらず左足を無器用に引きずりながら行って、「本蔵殿、敷居が高う御座るぞ」というと、いかにも、その足が無駄なく生きるのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

混乱する伴内の演出 清水一朗 二川清 津金規雄 上村以和於

清「伴内については前にも二川さんが言われたように「えへん、ばっさり」と「これはこれは」で足を前に出したらばっさりやる演出を、きちんと区別してもらわないと、最後の「お足許が危うござる」が何だか判らなくなっちまう。あれは足を踏み出そうとしたら中間達がばっさりやりそうなので足を引き、片足立ちの鷺の見得になるんだと思う。それをやらずに「お足許が危うござる」と言うから、演出が混乱するんだよ。」

二「足が上げられないから敷居が高いと言う・・・。」

清「そう言った意味が全然通じない。幾つかある伴内の演出を混ぜて、混乱させているのは拙いですよ。」

津「夜露は体に毒でござる」は?

清「あれはまた別な演り方でしょ。璃珏が演った、扇子を本蔵の頭の上に拡げる演り方。」

津「それは本蔵に対する当てつけみたいな意味はない訳ですか?」

上「ちょっと夜の風情を感じさせるというような、高尚趣味じゃないかな。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月10日)

 

初代中村吉之丞の伴内 二川清 清水一朗 上村以和於 津金規雄

二「昔吉之丞が演ったのを知らないんですよ、幕切れで門内へ入ろうとすると仲間にバッサリとやられるので右足を上げられず、『敷居が高うござる』という処に面白味があるんで、ここは吉之丞が巧かった。」

上「この役は最近は子團次でしょう。」

津「最後にもう一回バッサリを演るんですか。」

清「後ろを向いて引っ込もうと足を上げるとバッサリと来るんで、上げようにも上げられない形から、鷺の見得となる。」

二「だから『敷居が高うござる』が活きるんですよ。」

上「三十年代まではそれをやってたと思うが。」

清「吉十郎まではやっていた。吉之丞の時、仲間の筆頭に出ているんだから。処がその後の弥五郎辺りになったら、やらなくなっちゃった。」

二「右足バッサリやる以上は最後のあれはやらないとね。たまたま戸板さんの古い劇評に書いてあるのを見付けたんです。『敷居が高う・・・』の意味が書いてあるのを。」

清「鷺の見得をきるというのも戸板さんだったと思う。」

上「そこまで演るから、エヘンバッサリより右足バッサリの方が好きなんです。『夜露云々』は高等過ぎてあの洒落が皆に通じないしね。鶴蔵だったか右足バッサリでやっていながら『夜露』を言っていた。」

清「大阪の璃珏も『夜露』だったが、科白が少し違ってて、乙に澄ました感じが可笑しかった。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)

 

吉之丞の伴内 井上甚之助 昭和22年11月東劇評

「進物場」では、吉之丞の(東京)の伴内が、高助(大阪)璃珏(京都)を抜いて遙かに巧い。こんな役の巧さになると、吉之丞の巧さなど実にはっきりする。その巧さなど、或は今度の三座の「忠臣蔵」中での有数のものかと思われる。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号 昭和23年3月5日) 

 

加古川本蔵これへと申せ」の見得 志野葉太郎

加古川本蔵これへと申せ」の伴内の見得にもいろいろがるが、箱登羅の扇を口にくわえ、両手を大小にかけ束に立っての、鷺の見得とでもいいたいような形が面白かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※扇を扱う伴内は現行見たことがない。箱登羅が活躍した上方系の役者には残っているのだろうか・・・。

 

伴内のしどころ 川尻清潭

伴内が(若狭)右足へ取付いて極るのが定法ですが、近頃の伴内はこの時に片手を突いて、楽をしているのを見掛けます。本来は足へしがみついて、ガタガタと震えているのが、昔はこの役の演どころとなっていました。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

おかる・勘平

芸談
研究・批評

カシラ

(裏門)勘平 アオチとネムリの源太(油付、はね鬢)

(裏門)おかる 娘(油付、高髷)

 

おかるの風情 加賀山直三

お軽勘平の件は、草双紙のお家物風の若侍と腰元の一対の恋仲同志の情緒に掬ぶべき味があっていい。伴内が搦んでの、邪魔ッ払ひのあうむは愛すべき歌舞伎の遊びなのだから、これをテレ臭がって簡単に省略したり、そそくさと駆足でやったりしてはならぬ。(勘三郎歌右衛門の、先年の所演にはその傾向があった。)又、お軽の品のよすぎるのも考へ物で、矢ッ張、幾分かの蓮葉な感じも必要である。二度目の駆付け、哀愁味の外に、逢曳後の恋の肉体的な疲労から来る瘻れ(原文ママ)とでも云つたものが、嫌味にならぬ程度に添はつて居る方がこの件の哀れと風情を増すとすべきではあるまいか。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

裏門の衣装 志野葉太郎

お軽は矢絣が多い。昔は角隠しをしていたというから恐らく御殿模様の振袖という時代の拵えだったのだろうが、御殿女中の外出には矢絣という常識がいつの間にかこういう所に落着かせたようだ。これは『落人』の場合にもいえることである(前進座の国太郎は写真でみると角隠しをしているが、但し着物は矢絣)。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

その他・劇評

床山 鴨治歳一

若狭之助と判官とは同じ”大名”の髷だが、役の違いを表すために、別になるように作らなくてはいけないと言われている。若狭之助はイチ(※刷毛先の後ろの折ってある部分。)を少し伸ばし加減にしてすっきり見えるようにする。判官の方は丸みを少し多くつけることで、役それぞれの性格を巧みに表現する。(「鬘と役柄の表現」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

梶川与惣兵衛 13片岡仁左衛門

むしろ半不精なら辛抱出来るけれどもね。梶川与惣兵衛なんてのが代用で出て来る時があったんですよ。一頃大阪なんかにね。梶川与惣兵衛が抱きとめたんじゃァ、あなた、物になりませんよ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

本蔵役者に望むのは  加賀山直三

あれは、代わりの人が出るにしてもですね、本蔵にピッタリみたいな、例えば、大歌舞伎でなく、小芝居中芝居に出た時には本蔵が本役だと言った程度の人が出た方がいいですね。その意味で、いかにも本蔵らしいと思ったのは、中村竹三郎(1882〜1950)ッて人がそうだったと覚えています。 (『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

中村竹三郎 加賀山直三

一寸した面魂を持った傍役である事は必要で、早く云へば、小芝居で九段目の本蔵を本役として勤められる位の人柄のある人が欲しい。その意味で、最近は中村竹三郎と云ふ絶好の三段目の本蔵役者が居る事は幸ひである。(私は昔、宮戸座でこの人の九段目の本蔵を見た事があるけれど、そのスケール内でなかなか戴ける本蔵だったと覚えて居る)(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

明治40年11月 歌舞伎座 忠臣蔵一日替わりの劇評は、三木竹二の『観劇偶評』に詳ししい。

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参考文献たち

※敬称省略

『仮名手本忠臣蔵』「三段目」の備忘録 〜〜感想編〜〜

見た芝居

平成19年2月 歌舞伎座 高師直富十郎 塩冶判官=菊五郎 若狭之助=吉右衛門 伴内=錦吾

「進物場」の本蔵は幸太郎、錦吾の伴内は黒鞘。誰の評であったか、「錦吾が三段目の伴内を振られるようになるとは・・」という悲嘆がこもった一文があった。当時はなんとも思わなかったが昔を知っている人から見れば、役者の払底を感じざるを得ないのだろう。『忠臣蔵』は歌舞伎の定点観測に具合が良いと思わされる。その錦吾の伴内は「エヘンバッサリ」と「敷居が高うござる」の方。〽手ぐすね引いて」は、大刀を左手、小刀を右手で抱えながら右足を踏み出して束に戻す。大小を抱えながら、右足を上げ片足立ちしてツケ入の見得。

「刃傷」吉右衛門の若狭之助。若狭之助にこんなに大きな役者が居てくれれば、つまらないはずがない。後で映像で見た吉右衛門の若狭は、花道から出て本舞台上手を睨みながら、逆七三で「対面」の五郎のように腰を三段にかがめる。ジリジリと二、三足を寄ってから、歩を進め七三で片膝立てた右膝頭ポンとを打って上手を見込むのが、〽待つとも知らず」の一杯。

富十郎の師直。調子を浮かめたり、落としたりの具合の余裕が、詫びを入れていながらどこまでも若狭之助の上に立っていて憎らしい事このうえなし。「バカな侍ェだ」で引込む若狭。歌を読むのは、「御免くだされ」と判官に断ってから、右手で中啓を拡げ、左手に持つ短冊を見えないように隠す心。一度目は黙読、二度目に頭から読んでハテナという感じで首を捻り、三度目も頭から読んで「この歌に添削とは」となる。文箱と雪洞は黒後見に片付けさせる。ちなみに判官が来てからは、師直は箱合引を使っていた。(判官との背丈の釣り合いを考慮してか)「鮒ェ、鮒ェ、鮒侍だ」で横向きになる際に箱合引を片付けていた。
「ピリピリピリ」で鮒のヒレを真似ての面白さと役者・富十郎を魅せたと思えば、「鮒侍だ」では、雰囲気を変えたなんて甘い言葉でなく、「忠臣蔵」の世界に、まさに事件現場に居合わせたような緊張感が包む。思えばとんでもなく凄まじい役者であった。判官は菊五郎

平成21年11月 歌舞伎座 高師直富十郎 塩冶判官=勘三郎 若狭之助=梅玉 伴内=橘太郎

この幕は勘三郎の判官に自身の期待と興味の関心が多くはらわれた。巧みな勘三郎と憧れの富十郎。役者が揃っているから飽きがこない。二年前に比べ、一層体は不自由なことも増えただろうが、そうした衰えが邪魔にならなかった。

「進物場」。幕開きは「時太鼓」。橘太郎の伴内。黒塗りの鞘。「エヘンバッサリ」と「敷居が高うござる」の演り方。〽手ぐすね引いて待ちかけたり」は目釘を湿らせ、右足を踏み出して束に戻しながら、右手で肩衣をしごく。左手は大刀をかかえ、両足を軽く膝を折って軽みを出し、ツケ入りの即見得。菊十郎の本蔵。

「喧嘩場」。梅玉の若狭之助。逆七三でにじり寄り、七三まで歩き、片膝立てた右膝をポンとうつのが〽待つとも知らず」の一杯。

〽襖の陰には本蔵が」で裏向きで姿を見せるだけ。若狭に詫びる師直の姿は、足が悪いだけに正座にならず、形が悪いかもしれないが、それは決してマイナス点にはならない。歌舞伎には年齢や体調を考慮した演じ方は許されるのだ。判官との諍いでも師直の足を崩した姿勢については同じことが言えるが、全く問題ではないと思う。富十郎贔屓の引き倒しではなく。若狭は「馬鹿め」と言って引っ込む。若狭を見送り、「うつけほど怖いものはないな」と言っていたが、(普通は「馬鹿ほど怖い・・・」)大序でもそうであるように、富十郎の”うつけ”という言葉に引っかかりを覚えた。

判官は勘三郎。判官の出の間、師直は葛桶に腰掛ける。茶坊主に文箱を持たせる演り方。師直は床几に腰かけたまま歌を読む。その間伴内が雪洞を師直の手元に掲げる。「御免くだされ」と断るが、中啓で隠すような仕科はしない。一度目は黙読。二度目は頭から読んで、「コリャこれ新古今集の歌、この古歌に添削とは」になる。〽わが恋の叶はぬ印」以降これらの間に床几を伴内に片付けさせ、足を崩して座る。「お手前この文ご覧うじたか・・お聞かせ申そう」などと言って、短冊を開き、客席へ(字面がはっきりと見えるように)見せつけるように左手で広げて持つ。「井戸替えの折に釣瓶にかかって」で閉じた中啓を逆さに持ち、下から上へ上げて釣瓶に見立てるのが変わっている。(大体は手にした中啓を下から上へという仕科をする程度)〽判官腹に据えかねて」で手を滑らす程度。「本性なら御身ゃどうするのだ」で師直は両膝立をして、ここまで、判官に対して小さく見えていたが、そうした見た様を解消していた。「東夷の存ぜぬことだわ」と言わず、「お身様が知ったことではないわさ」というのが変わっていた。

平成25年11月 歌舞伎座 高師直左團次 塩冶判官=菊五郎 若狭之助=梅玉 伴内=松之助

第五期歌舞伎座初の「忠臣蔵」の通し。前回師直を勤めた富十郎、同年代の芝翫らが鬼籍に入った。だが、予想外だったのは前回判官を勤めた勘三郎も前年十二月に亡くなり、追い打ちをかけるようにこの年三月に団十郎も他界。そして二年後には三津五郎までも・・・・。新しい歌舞伎座では勘三郎の巧みな芝居、団十郎のスケール大きな芝居、三津五郎の規矩正しい時代物を存分に楽しもうと思っていた目論見はあっけなく破れてしまった。

「進物場」。幕開きは「時太鼓」。茶色味の鞘の伴内。「右足を出したらバッサリ」 目釘を湿らせたあと、両手は大小に添えながら右足を出す。仲間が「バッサリ」とやるので、「今じゃないわい」といい、足を束に戻して右手で肩衣をしごき、右足を上げて片足立ちで即見得という手順。本蔵の目録を読もうと歩むところで、右足を踏み出さないように引きずりながら歩くおかしみを見せる。右足をもて扱う松之助に愛嬌がある。いつもの「敷居が高うござる」ではなく、「夜露はお身の(扇を拡げ、柝の頭)お毒にござるぞ」と言って、白扇を本蔵の頭へかざしながら門内へ。璃珏がやったという珍しい演り方を見せてくれた。

「喧嘩場」。梅玉の若狭之助。知性が先立つこの人には若狭之助の熱気は感じられない。三階からは花道の出が見えないので、映像を見返すと、揚幕から出てきた時と、三段に腰を折ってから七三にかかり、右膝をポンと打って見込むところにかかるまでの足取りが全く差がなくノンビリとしたものだ。これから師直を斬り殺すという、あたりまえの流れすら疑いたくなるほどで、そうした覇気というか熱量の乏しさは敏感に観客へ届く。「馬鹿な侍だ」で引っ込む。

判官は菊五郎。師直は雪洞に透かし見て「見事、見事」と独り言のように手跡を誉め、一度目は頭から声を出し読み、二度目も頭から音読して「コリャコレ新古今の歌」となる。

左団次は「御前の方はお構いないじゃまで」とかのセリフも時代に張らず。張らないから芝居にアクセントがなくノベタラと続くような感じに陥る。芝居が平坦だから判官が激してこない。判官に同情する。

また、とにかく驚いたのは、文箱と雪洞を上手の襖の方へ派手に滑らせて片付ける。不機嫌な様は汲み取れるが、あまりにも悪目立ちしている。後見に片付けさせるか、後ろに隠す程度で十分。

「挙句の果てが橋杭へ鼻っ柱をぶっつけて」で自身の額を軽く打ち、「トドのつまりがお廊下の大臣柱へ鼻っ柱をぶっつけて」で判官の胸を打つ。打つのだが”ピシャリ”という芝居っ気が乏しい。体がまだ不自由という訳でもないのだから、もっと芝居をしてもらわないと困る。

平成28年10月 国立劇場 開場五十周年記念
高師直左團次 塩冶判官=梅玉 若狭之助=錦之助 伴内=橘太郎 勘平=扇雀 おかる=高麗蔵

完全通しということで、「足利館門前」、「同 松の間刃傷」、「同 裏門」という構成。橘太郎の伴内。「エヘン、バッサリ」と「敷居が高うござる」の演り方。本蔵は半無精せずに團蔵がこの場にも出る。進物場の後、いわゆる「文使い」になる。判官を乗せた駕籠と従う扇雀の勘平が出る。黒の小袖に上下で高股立をとる。よく本で見聞きした羽左衛門風の水際立つ勘平とは味わいの異なる、柔らかみがあり、ぼったりとした線の色気は、脇の甘さを感じさせて面白い。奥へ入ると、〽地謡の声播磨潟、高砂の浦につきにけり」。奴に提灯をもたせ、花道より矢絣の高麗蔵のおかるが文箱を持ってでる。〽どじょう踏む」で奥より伴内が出て、おかるの目を隠して「鷲の隣の鷺坂伴内じゃ」と言うおかしみ。私は個人的に地味な役者が大好きで、高麗蔵も好きなひとの一人。三段目とは言いながらおかるという大きな役を勤めてくれたのは嬉しい。余談だが高麗蔵で記憶に残っているのは平成24年11月同じく国立劇場で「鈴ヶ森」の権八。九代目幸四郎の長兵衛相手に色若衆の役柄にはまっていた。幸四郎の偉い所は常に自身の一門の役者を引きたてるところだ。
道具廻って「喧嘩場」。〽襖の陰には本蔵が」で本蔵は姿を見せず。錦之助の若狭。イキ十分。師直がひたすら平伏するのはその通りかもしれないが、時々顔を見てやらないと若狭の錦之助が踏み込んで芝居を出来ない。終始下を向いたままで進行するなか、ただ平伏したままのを是とする評もあるが、起伏がなく観客としてはダレる。「バババ、馬鹿な侍だ」といって引っ込む。

梅玉の判官。花道より文箱を持参して出る。音羽屋系の判官しか知らないから、演り方が違うので良いものを見た気がした。(※パンフレットには七代目梅幸から手取り足取り教わったとあるが)そのあとは一通り。左團次の師直にセリフの締りがなく、つまり時代に張るところもあまり張らないので、足取りの悪さとメリハリの無さに退屈した。今回も文箱と雪洞を後ろへ雑に片付けるところが悪目立ちした。

「裏門」。おかる勘平の焦りと、橘太郎の伴内が道化ぶりに対照の妙がある。

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番外編(自分の目で見られなかった舞台)

昭和52年11月 歌舞伎座 高師直=2松緑 塩冶判官=7梅幸 若狭之助=17羽左衛門 伴内=子団次
本蔵=5九蔵

「進物場」。幕開きは「時太鼓」、朱鞘の伴内。「エヘンバッサリ」と「敷居が高うござる」の演り方。〽手ぐすね引いて待ちかけたり」は右足を前に踏み出し、束に戻して右手で肩衣をしごきながら、左手は刀の鐔あたりを持って、首を小さくひねるようにしてツケ入の見得。

「喧嘩場」。若狭の羽左衛門は、花道から出て本舞台上手を睨みながら、逆七三で腰を三段にかがめるが両手はだらんと下がっている。ジリジリと二、三足を寄ってから、歩を進め七三で左片膝をつき、片膝立てた右膝頭ポンとを打って上手を見込むのが、〽待つとも知らず」の一杯。引っ込みは「プッ」と吐くだけ。

松緑の師直。難を逃れ「馬鹿より怖い・・」の台詞のあと、「床几を持て」と師直が云うと、伴内が葛桶を持って来てそれに腰かける。些細なことだが見た様として、力関係は歴然だ。多言を要せず、視覚的に起伏をつくる努力を昔の役者はしていたのだろう。(茶坊主から文箱を判官に渡され、「手づから」文箱の受け渡しの時に葛桶は片付ける。)

茶坊主から文箱を渡され師直へ。「御免くだされ」と断って、置いてある雪洞に透かし見て、お見事と褒めてから、一度目はさなきだにと頭から声を出してスラスラと読む、二度目は時代に張って頭から読んで「コリャコレ新古今の歌、この古歌に添削とは」となる。以降始終師直は膝立ちをしている。即ち絵面的には師直が判官より大きく見えている。「橋杭へ鼻っ柱をぶっつけて」では師直自身の頭を中啓で軽く打つ。「お廊下の柱へ鼻っ柱をぶっつけて」では、判官の胸を中啓で叩く。

梅幸の判官。このひとの演技が昭和の模範的判官として深く尊敬されていたことに思いを馳せて鑑賞した。

昭和61年2月 歌舞伎座 高師直富十郎 塩冶判官=芝翫 若狭之助=團十郎 伴内=市村吉五郎

「進物場」。幕開きは「時太鼓」。市村吉五郎の伴内、三里当が赤いのが変わっている。鞘は茶色味。「右足を出したらバッサリ」の演り方。仲間への稽古は、最初はノロノロとしているのを叱り、二度目は右足を出していないのにバッサリといくので早すぎると叱り、(「身共の体が宙に浮いてしまうわ」ということを言う。)三度目で「出来た、加古川本蔵これへと申せ」となる。〽手ぐすね引いて」は、目釘を湿らせて、右足を踏み出し(ツケ入)、束に戻しながら右手肩衣をしごいて、左手は大刀を抱えてツケ入りの見得。「敷居が高うござる」で引込む。本蔵は澤村昌之助。

若狭之助は團十郎。上手を睨み逆七三で一度止まり、腰を一度落としてにじり寄る。七三までスタスタと早足にて歩み、片膝立した右膝をポンと打つのが〽待つとも知らず」。〽襖の陰には本蔵は」のところで本蔵は姿を見せるが拝む仕科はしない。「馬鹿な侍ェだ」で引込む。

富十郎の師直。合引は用いず。

芝翫の判官。文箱は茶坊主が持ってくる。師直は「御免くだされ」と断って雪洞に近づけ(中啓は持たない)、一度目より頭から声を出して読むと、「こりゃ新古今の歌、この古歌に添削とは」となる。つまり二度読まない。鮒のたとえでは「後学のために聞かっせい」という時、判官の方へ体を向け、完全に客席に対して横向きとなる。その後は正面向きに戻るが。「挙句の果てが橋杭へ鼻っ柱をぶっつけて」は中啓で判官の胸を打つ。(つまり後に通常なら「手前の詰所はいずれへござる」などと嘲る台詞があって、判官自身のことを指して「トドのつまりがお廊下の大臣柱へ鼻っ柱をぶっつけて」と罵倒しここで中啓を判官に当てるが、この部分がカットされている。)なので、すぐに「鮒侍だ」となる。〽と出放題」のいつもの極りでツケが入っていない。

〽判官腹に据えかねて」で右手を震わせるだけで滑らせない。師直を斬った後は、本蔵を見て、拳を握り震わせ口惜しき思い。

平成7年2月 歌舞伎座 松竹百年記念
高師直羽左衛門 塩冶判官=菊五郎 若狭之助=富十郎 伴内=吉弥

「進物場」。幕開きは「時太鼓」。茶色味の鞘の伴内。「エヘンバッサリ」「敷居が高うござる」の演り方。伴内は役柄的には半道敵と言われるが、その表現が巧みである。〽手ぐすね引いて待ちかけたり」は、目釘を湿らせたあと、大小を両手で(左手は大刀、右手は小刀)抱えながら右足を踏み出し、束に戻して、左の刀は脇ほどまで上げて抱え込み、右手は小刀の鐔あたりに添え、右足を上げて片足立ちをしてツケ入りの見得。加古川本蔵は錦吾。

※吉弥の伴内には上方風(璃珏の演り方など)が入っている評があるが、これは私には判らない、お分かりの方は教えてほしい。

「喧嘩場」。富十郎の若狭之助。上手を睨みながら出て一息に七三まで歩み、時計廻りに揚幕を振り返り一廻り。片膝立した右膝をポンと打つのが〽待つとも知らず」。一番変わっていたのが若狭の引っ込みである。富十郎超一流の口跡にウットリさせられた。珍しいので以下にセリフを抜粋。

「執頭、それへ出い、ツっと出い、さきの鶴ヶ岡において、この若狭助を小身者と侮って、出るがままの悪口雑言、堪忍の臍をかみしが、武士の一分相立たねば、こんにちこの場において、ただ一刀に切り捨てんと思いしに、武士たるものが帯刀を投げい出し、犬蹲になって詫びを致すとは、(時代に張って)武蔵守は犬侍だ、身不肖ながら若狭助、犬切る刀持ち申さぬ、ばばばば馬鹿な侍だ」早舞にて引っ込む。
家の断絶を覚悟した人間としてはあれくらい言わなければ済まないだろうし、富十郎の芸そのものを味わうことができた。これはタテ詞風に立板に水で言わないと意味をなさない。是非この演り方に続く人が現れて欲しいものだ。今なら彦三郎あたりにそうした口跡の良さを披露してもらいたい。

判官を待つ間に伴内へ雪洞でなく、手燭を用意させる。師直は合引は用いない。

※本当に火のついた手燭を使うのは評判が悪い。時間の推移を見せる工夫のなのかもしれないが、そこだけリアルで邪魔になってる。第一に近くに後見も居ないので危ない。薄縁が焦げた日もあったそうだ。

補足)此場で伴内に手燭を持たせて出るのは、勿論正七つ(今の午前四時)の暁の寅の刻を見せたのですが、その蝋燭の灯で顔世の短冊を読む事にしてあって、眼鏡を遣うのもありますけれど、跡で邪魔になるでしょう。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

と記しており、羽左衛門はこうした六代目の演り方で演ったまでのことなのだろう。

菊五郎の判官。言うまでもなく文箱は茶坊主に持たせる。ゆらめく手燭に短冊を透かし、「これは見事なご手跡でござるな」と判官へ言う。一、二度黙読して首を捻り、声は張らず、独り言のように頭から音読する。「こりゃこれ新古今の歌、その歌に添削とは」になる。「御前の方はお構いないじゃいまで」と罵って、師直自身で手燭の火を消し、文箱とともに後ろへ苛立ちを込めて滑らすように片付けるが、左団次もこれをしていた。羽左衛門が師なわけだから同じようにやるのだろうが、左団次がこれをしたのを見た時にその雑さと時代物にも関わらず、師直が”片付ける”という行為に疑問を感じていた。羽左衛門がそのように処理していたとこの映像から知ったが、ここは松緑のようにそっと後ろに隠すか或は、富十郎のように後見に処理させるかでいいのではないかと思う。

「トドのつまりが橋杭へ鼻っ柱をぶっつけて」で判官の胸を中啓で打つ。「トドのつまりがお廊下の大臣柱へ鼻っ柱をぶっつけて」は”鼻っ柱”で自身の鼻を中啓で差し、”ぶっつけて”で判官の胸を中啓で叩く。

菊五郎の塩冶判官。素敵な判官である。

 

平成14年10月 歌舞伎座 高師直吉右衛門 塩冶判官=3鴈治郎 若狭之助=勘九郎 伴内=吉弥

「進物場」。幕開きは「調べ」。茶色味の鞘の伴内。「エヘンバッサリ」、「敷居が高うござる」の演り方。〽手ぐすね引いて待ちかけたり」は、目釘を湿らせたあと、大小を両手で(左手は大刀、右手は小刀)抱えながら右足を踏み出し、束に戻して、左の刀は脇ほどまで上げて抱え込み、右手は小刀の鐔あたりに置いてツケ入の見得。本蔵は嵐橘三郎

「刃傷」。勘九郎の若狭、本舞台上手を睨みながら逆七三で一度止まり、〽長袴の紐締めくくり」で紐を締める仕科をし、袴を引きつけつかみながらスタスタと花道付け際まで向かい、反時計回りに揚幕を振り返り、本舞台を見込み、左手で刀を握りその場で右膝を立て、ポンと右膝打って見込む。「馬鹿な」と言って引っ込む。

吉右衛門の師直は合引は使わない。文箱は茶坊主が持ってくる。「御免くだされ」と判官に断り、短冊を見ると「お見事、お見事」と独り言のように手跡を褒め、判官にも「お見事じゃなア、お見事」と褒める。一度目から声を出して頭から読み、二度目も同じくらいの声で頭から読んで「この古歌に添削とは」となる。師直自ら文箱を封を閉じ、雪洞と一緒に後ろへ片付ける。「橋杭へ鼻っ柱をぶっつけて」で自分の頭を軽く打ち、「お廊下の柱へ鼻っ柱をぶっつけて」では判官の胸を中啓で打つ。鴈治郎の判官。〽判官腹に据えかねて」で手を滑らせることはせず、ジッと揚幕の方を向き師直の芝居を受ける。

「本性なら御身ゃどうするのだ」の処は師直は立って横向きに判官と向き合う。(「髪結新三」の大家と新三のように。)

幕切れ、伸ばした手を閉じ震わせるが、泣くような様子は見せない。怒りで震えて言葉にならない声でウウッと唸り声を上げる。

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『仮名手本忠臣蔵』「二段目」の備忘録 〜〜錦絵〜〜

図はすべて「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」より
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/digitalukiyoemuseum/2017/06/post-95.html

明和6年(1769) 5月 江戸市村座 本蔵=3市川團蔵

古めかしいこの作品は勝川春章の作。松を伐った本蔵は三代目市川團蔵。このときの若狭之助は四代目坂東又太郎。この興行の師直は実悪を得意として名高い、二代目中島三甫右衛門。

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明和6年5月 江戸市村座 加古川本蔵=3市川団蔵
寛政13年(1801) 2月 江戸中村座 本蔵=4市川團蔵 小浪=2小佐川七蔵 戸無瀬=2瀬川菊三郎(水無瀬=1市川おの江)

初代豊国の作。幕切れの本蔵が馬を引立て、師直の屋敷へ向かうのを、どこへと戸無瀬が留める場面。本蔵は四代目市川團蔵となっている。

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文化7年(1810) 若狭=7市川團十郎 本蔵=3坂東三津五郎 力弥=5岩井半四郎

勝川春亭の「役者見立忠臣蔵 二段目」という作。本蔵が若狭之助に金打を求められ、誓いを立てている。その奥で力弥と小浪が一緒に収められている。

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文化8年(1811) 7月 江戸中村座 本蔵=3中村歌右衛門 戸無瀬=4瀬川路考

初代豊国の作。松を伐る歌右衛門の本蔵。この絵の本蔵は胡麻の頭ではない。戸無瀬は四代目の菊之丞を追贈された路考。この興行中、若狭之助は三代目坂東彦三郎、力弥は瀬川銀次郎、小浪は二代目の尾上栄三郎。

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文化8年(1811)7月 江戸中村座  加古川本蔵 =3中村歌右衛門 女房となせ=4瀬川路考
文化11年(1814) 4月 江戸中村座 戸無瀬=3坂東三津五郎 力弥=2市川伝蔵 小浪=2尾上松助

初代国貞の絵。力弥の口上を小浪が受けるのを、戸無瀬が様子を窺う艶っぽい場面。小浪は松助は後の三代目菊五郎。力弥の伝蔵は後の三代目市川門之助

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文化11年(1814) 4月 江戸中村座 本蔵=1市川市蔵 若狭之助=2尾上松助

初代歌川国貞の絵。松を伐り、若狭之助へ勇みをつける初代市川市蔵の本蔵。市川市蔵は初め四代目團蔵の門に入り、後に七代目團十郎門下へ、初代市川蝦十郎を名乗る。 

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文化13年(1816) 7月 本蔵=3坂東三津五郎 若狭=7市川團十郎

歌川国安の作。三代目坂東三津五郎の本蔵と七代目市川團十郎の若狭。庭先の松でなく盆栽の松を伐っている。盆栽を伐るのは建長寺じみているが、この場は桃井館となっている。役者の工夫も様々なようだ。

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文化13年(1816) 7月 本蔵=3坂東三津五郎 戸無瀬=3中村松江

初代豊国の作。本蔵の行手を阻む松江の戸無瀬。三津五郎の本蔵が変わっている。剥身のような化粧をとり、胡麻の頭ではない。

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文政8年(1825) 7月 江戸中村座 本蔵=5松本幸四郎

初代国貞の作。松を見込んで束に立つ鼻高幸四郎。昔はここでたっぷりと芝居をしたのであろうか。

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嘉永2年(1849) 9月 大坂筑後の芝居 若狭之助=2片岡我童

五粽亭広貞の作。二代目我童、後の八代目仁左衛門の若狭之助。刀を見つめて師直への復讐の意志を固めたのだろうか。このときの本蔵は四代目三枡大五郎

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嘉永4年(1851) 2月 江戸市村座 本蔵=2市川九蔵

国芳の作。「建長寺」で演じられた。本蔵は二代目市川九蔵、後の六代目市川團蔵。床の間の盆栽を後ろを向いて伐っている。昭和61年の羽左衛門の本蔵もそうしていた。

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安政6年(1859) 9月 江戸市村座 力弥=3岩井粂三郎 小浪=13市村羽左衛門

 三代目豊国の作。力弥は後の八代目岩井半四郎となる三代目の粂三郎。小浪は後の五代目尾上菊五郎となる十三代目市村羽左衛門。古風とされている型で、小浪は丸型の茶卓の穴から力弥の顔を覗いている。

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文久2年(1862) 3月 江戸中村座 力弥=3澤村田之助 小浪=2澤村訥升

三代目豊国の作品。針打をさらに一層太くしたような大時代な髷が目を惹く、田之助の力弥。現田之助が力弥を演じた際の衣装に似ているが、先祖の田之助の絵を参考にしたのだろうか。

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文久2年(1862) 3月 江戸中村座 本蔵=1坂東亀蔵 若狭=8片岡仁左衛門

国明の作。初代坂東亀蔵の本蔵が松を伐る場面。それをじっと見つめる八代目片岡仁左衛門の図。亀蔵はこの本蔵の他、高師直、原郷右衛門、天川屋義平を演じている。本蔵という役の位取りの一端をうかがえる。

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慶応元年(1865) 1月 本蔵=1中村雀右衛門 若狭=2市川滝十郎 戸無瀬=中村千之助 力弥=2片岡我当 小浪=2實川延三郎

芳滝の見立作。二段目の見せ所が詰まった画面である。二段目中の名場面が詰まっているだけに、眺めているだけで、台詞が聞こえてきそうだ。和事を得意とした二代目の片岡我當の力弥。本蔵は”実悪の開山”と称された初代中村雀右衛門f:id:kabukich:20200329160600j:plain

 

 

『仮名手本忠臣蔵』「二段目」の備忘録 〜〜感想編〜〜

 

自分の目で見た芝居

平成28年10月 国立劇場開場50周年記念公演
若狭之助=錦之助 本蔵=團蔵 戸無瀬=萬次郎 力弥=隼人 小浪=米吉

文楽ならばともかく歌舞伎で二段目など、いつになったら見られるのかと思っていたところに国立劇場の全段通し狂言。さすが国立劇場と喜ぶ。

上演記録を見ると平成20年10月平成中村座で出ているが、大劇場では昭和49年12月まで遡る。(平成20年は大学1年生だったが、歌舞伎座の昼夜、国立劇場と行ってさすがに平成中村座まで行けるお金はない。この月の玉三郎の八重垣姫に陶然し、「井伊大老」の魁春の絶品静の方に涙した。今思えば充実した日々だった。)
その昭和49年12月は、福助時代の梅玉の若狭。戸無瀬が六代目歌右衛門、本蔵が八代目三津五郎、力弥が田之助、小浪が松江時代の魁春。プログラムに載っている田之助の力弥の若衆ぶりはとても素敵だった。

さて大序のカチコチした空気から一変、萬次郎の戸無瀬の世話味濃い落差で一服。わざと癪を起こすところの陽性具合は可笑しいくらいだ。松伐りの前までは、多少和らぐ程度がいい。

梅玉に教わったという錦之助の若狭は、潔癖な気質を本蔵との間のつまった台詞の応酬に込めている。どこの世界にもありそうな、権力になびき事なかれ主義が蔓延る年寄り連中に、ひとり楯突く若者の愚直さがこもる。

義太夫の二段目などを聞いていると、若狭之助が描く、復讐して死までのストーリーを滔々を語るあたりは、戦の無い世の中にあって、武士としての死に場所を見つけ得られたような恍惚感すら覚えていそうだ。一見、家の断絶や奥方を憂い悲壮感が漂うものの、所詮は弓矢神への誓いを優先する男なのだと、私は思っている。これらのことを念頭に置けば、未練たらしく憂うより、まるで武士の理想に迫ろうとする潔癖一本気の錦之助の若狭は素晴らしいものだったと思う。

團蔵の本蔵。誰から教わったかというのは記載されていない。五十路の分別盛りの本蔵。胡麻の頭でもあるし、渋く渋くと抑えてやっているが、陰にこもりすぎている。主人と家を守る執権職(家老)との葛藤を芝居なのだから、芝居っ気あって見せてほしい。肚芸もやりすぎれば退屈だ。

隼人の力弥は背丈からして現代人スタイル、若衆方という雰囲気は物足りないが、致し方ない。小浪は米吉。


珍しい出しものなので手順を記す。

大序より幕間なしで二段目となる。幕が開く平舞台に畳敷、若狭の紋の四つ目が描かれた襖。桃井館の体。板付きで團蔵が扇を下に突き思案の体。師直との諍いのことを案じている。上手より現れた戸無瀬と小浪。噂に動揺する若狭之助奥方を気遣うようにと二人を戒める。

力弥が上使に来たと知らせ。花道より力弥。紫の振袖にやや萌葱色がかった小紋の上下。

梅と桜の件は、花道より力弥が本舞台下手にかかり、上手寄りにいた小浪と手を差し出しながら、左右に首を振って一回、また少し離れて、二足三足近づいてまた同じ動き。ここまでが〽赤面は」

この寄ったり離れたりの部分は三味線でつなぐ。

〽梅と桜の花相撲」

のうち、顔を見合わせながら付廻しのように動きながら、上手下手に二人が入れ替わって、また先ほどと同じように手を差しだしながら近づく。この間、上手の襖を開け、二人の様子を戸無瀬が見届ける。

口上を伝えたあと、奥の襖より若狭之助が現れて、口上の趣受け取った大儀であると伝えまた奥へ。
力弥は館を後にしようと下手に行きかけるを、小浪がその刀を控え(勝頼と八重垣姫のように)、力弥を留める動きなどをしてトド、舞台中央で〽娘心の」で力弥は柄頭に手をかけるのが柝の頭、舞台廻る。

舞台廻って松切りの場、二重常足の道具。刀の手入れをしている若狭之助。召しだされて團蔵の本蔵。ジッと受けて、下手の松は切り落とすだけ。刀を手早く戻して返す。「もう会わぬぞよ」で若狭之助は奥へ。「本蔵が家来馬引け」で書を認めているうちに家来に出発の準備はさせるが、馬の姿は出さない。戸無瀬と小浪が本蔵にすがるを振り切り縁先まで出て、鞭を手に取り極まるのが柝の頭。

竹本は「力弥上使」が豊太夫 翔也  「松切り」六太夫 公彦

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平成28年10月 国立劇場 ちらし

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番外編(自分の目で見られなかった舞台)

昭和61年10月 国立劇場 国立劇場開場二十周年記念公演 
桃井若狭之助=12團十郎 加古川本蔵=17羽左衛門

二段目はそもそも演じられないから映像が手に入らないが、「建長寺」が手元にあった。この映像を見た限り、率直な感想としては、團十郎の若狭や本蔵の羽左衛門が良いとか悪いとかの問題ではなく、本来の二段目に勝る部分を見つけづらい。この場が面白かったとしたら、よほど役者に妙味があるのだろう。(二代目梅玉の本蔵が味わいがあったという評にあるように。)

本来の二段目の本蔵には早寝刃を合せながら、すぐさまに師直屋敷へ向かうという小賢しさがあるが、それこそ主人の気性を熟知して考え抜いて導いた家老本蔵という男の身の処世術なのだ。対して建長寺は、思し召し通りにと言いながら、(師直が)犬蹲になって詫びる時は、「斬るに足らない」という言葉を引き出す迄粘る本蔵は、家存続に苦心をする様子は分かるものの、人物が小さくなっている。

だが、つまらないからと言ってこの芝居自体が無くなっても困る。伝承のためにも時々は出してもらいたい。

 

『仮名手本忠臣蔵』「大序」の備忘録 〜〜錦絵〜〜

 早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/digitalukiyoemuseum/2017/06/post-95.htmlという素晴らしいWebサイトがある。演劇研究の総本山である演博のコレクションを主に、所蔵品である錦絵を公開している。そちらを参考に大序の錦絵を眺めてみる。

過去の名優の舞台を眺めるのだから、「評判記」の類も拾って記載したいものだが、時間に余裕がなく断念。今後出来次第補足していく。

衣装についての考察

8坂東三津五郎

「その衣装も文化・文政ごろまでは動いていますね。浮世絵で見ると、判官と若狭之助が逆になってるのもあるし、ほかの模様のついてるのを着ているのもありますよ。きまったのは天保で、それ以後は動いていないようだ。」(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)


服部幸雄

「文化六年五月に、中村座で三世歌右衛門が、師直・由良之助・定九郎以下、七役を演っていますが、この時はじめて「大序」の判官と若狭之助の衣裳が大紋烏帽子になったと「戯場談話」に出ています。それまでは師直だけて、二人は長上下だったといいます。(後略)」(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

大序の衣装についての研究

桑原博行 「歌舞伎衣裳の変遷について」ーー『仮名手本忠臣蔵』大序を例として(『歌舞伎 研究と批評47』2012年5月)

 

※敬称省略

寛政13年(1801)2月 江戸中村座 師直=4市川團蔵 若狭=2市川門三郎 判官=市川荒五郎 顔世=2瀬川菊三郎

『新版 忠臣蔵十一段続』という作品の「大序」と「二段目」が描かれた初代豊国の絵。大紋烏帽子の師直に若狭が詰め寄るのを判官が扇子を手に制する。この画面には居ないが直義は四代目中村七三郎

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寛政13年2月 江戸中村座 「新板 忠臣蔵十一段続 大序・二段目」師直=4市川團蔵 判官=1市川荒五郎 若狭=2市川門三郎 顔世=2瀬川菊三郎 
文化7年 師直=5松本幸四郎 若狭=7市川團十郎 判官=2尾上松助 顔世=瀬川仙女

勝川春亭の手による『役者見立忠臣蔵 初段』の図。見立ということで、化政期を代表する役者がそれぞれの役どころで描かれている。師直はひと目でそれと分かる五代目幸四郎。鷹の羽が描かれた上下を着た判官は後に三代目尾上菊五郎となった二代目尾上松助。龍頭の兜を手にする顔世は三代目瀬川菊之丞の瀬川仙女。やはり烏帽子大紋は師直のみで若狭と判官は上下姿。櫃は白木のように見える。

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文化7年(1810) 高師直=5松本幸四郎  桃井若狭之助=7市川団十郎 塩冶判官=2尾上松助  顔世御前=瀬川仙女
文化13年(1816)7月 江戸中村座 師直=5松本幸四郎 若狭=7市川團十郎 判官=3尾上菊五郎 顔世=2澤村田之助

こちらも化政期を代表する名優が揃った初代豊国の作品。二代目澤村田之助に言い寄る鼻高幸四郎と詰め寄る七代目團十郎の若狭。それぞれ見せ所が生き生きと描かれている。若狭と判官はともに上下姿。この興行の直義は初代市川三蔵。

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文化13年(1816)7月 江戸中村座 高師直=5松本幸四郎 若狭之助=7市川團十郎 判官=3尾上菊五郎 顔世=2澤村田之助
文政4年(1821)5月 江戸中村座 若狭=7市川團十郎 顔世=5瀬川菊之丞

 初代豊国の作品。顔世は通称多門路考の五代目瀬川菊之丞。若狭之助は七代目團十郎

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文政4年(1821)5月 江戸中村座 かほよ御ぜん=5瀬川菊之丞 若さの介=7市川団十郎

文政5年(1822)5月 江戸中村座 高師直=3坂東三津五郎

永木の三津五郎こと三代目の坂東三津五郎高師直。初代豊国の作。実際の舞台を見ているとあまり印象がないが、錦絵だと烏帽子を押さえる鉢巻に目がいく。描く際にコントラストとして鉢巻を大きく描いた方がキレイとかいう理由なのか。はたまた昔は、大時代な味わいとして、鉢巻を大振りにしている可能性だってあるかもしれない。

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文政5年5月 江戸中村座興行 高師直=3坂東三津五郎
文政8年(1825)7月 江戸中村座 高師直=5松本幸四郎 若狭之助=7市川團十郎

初代豊国の作。師直というとどうしても皺のよったお爺さんのイメージだが、三代目三津五郎でもそうだが、絵のようにきれいな顔で、壮年期真っ盛りの師直という感じの芝居も見ていたいと思った。

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文政8年(1825)7月 江戸中村座 高師直=5松本幸四郎 若狭之助=7市川團十郎
文政13年(1830)4月 江戸市村座 師直=1片岡市蔵 若狭=2坂東簑助 顔世=2岩井粂三郎

二代目豊国の作品。七代目片岡仁左衛門門下の初代片岡市蔵の師直。顔の化粧が一風変わっている。役柄の性格表出のためか隈をとった大時代な師直の姿である。大紋も定番の黒ではない。上方出身の役者らしい工夫を凝らした役作りが窺える。若狭は後の四代目三津五郎となった簑助。顔世は後の六代目岩井半四郎となった二代目の粂三郎。

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文政13年(1830)年4月 江戸市村座 師直=1片岡市蔵 若さの介=2坂東簑助 かおよ御ぜん=2岩井粂三郎
 天保10年(1839)7月 江戸中村座 師直=4中村歌右衛門 若狭=4市川八百蔵 判官=4坂東彦三郎 顔世=初代岩井紫若

色味が鮮やかな国芳の作。外題名は『仮名手本』ではなく、『忠孝義士由良意(ちゅうこうぎしのゆらい)』として上演された。芝居番付も併せて見る限り演出は仮名手本忠臣蔵と近いため採り上げた。師直・若狭・判官の三人が烏帽子大紋姿と変わり、衣装の色も現行に近い。(芝居番付の若狭と判官は上下姿である。)

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天保10年(1839)7月 江戸中村座 師直=4中村歌右衛門 若狭之助=4市川八百蔵 塩谷判官=4坂東彦三郎 かほよ御ぜん=1岩井紫若
嘉永2年(1849)7月 江戸中村座 師直=4坂東三津五郎 若狭=5澤村長十郎 判官=3尾上新七 顔世=3岩井粂三郎

三代目豊国の作。師直の顔世を見つめる首の傾げただけで、好色味を感じる作品である。顔世の岩井粂三郎は、懐紙を口に咥えている。現在では懐紙を持つやり方だが、昔は口に咥えて兜改めをする人もいたという。(リンク参照)。その顔世は三代目岩井粂三郎で後の八代目岩井半四郎である。描かれていない直義は市川白蔵

kabukich.hatenablog.com


kabukich.hateblo.jp

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嘉永2年(1849)7月 江戸中村座  高ノ師直=4坂東三津五郎 桃ノ井若狭之助=5沢村長十郎 ゑんや判官=3尾上新七 高貞妻かほ世=3岩井粂三郎 
嘉永2年(1849)9月 大坂筑後芝居 師直=4三枡大五郎 若狭=2片岡我童 判官=市川市紅 顔世=3中村大吉

七代目片岡仁左衛門の十三回忌追善興行として大坂筑後芝居で演じられた。上方絵で名高い五粽亭広貞の作品。大立者と評された三枡大五郎の迫力ある師直が印象的。三枡大五郎は明治前期の関西の雄・中村宗十郎の養父。直義は嵐冠三郎。

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嘉永2年(1849)9月 大坂  高ノ師直=4三枡大五郎 判官=2市川市紅  御台かほよ=3中村大吉 若狭之輔=2片岡我童 

 

文久2年(1862)3月 江戸中村座 師直=1坂東亀蔵 顔世=3澤村田之助

師直の台詞が聞こえてきそうな画面。三代目豊国の作。初代坂東亀蔵は四代目彦三郎で、通称彦旦那こと五代目彦三郎の養父にあたる。三代目澤村田之助も伝説的な女形として知られる。両者ともに写真が残っているが、このあたりの役者から錦絵と写真とで顔の比較が出来て興味深いものがある。ちなみにこの興行の他の配役は判官が二代目澤村訥升、若狭之助は二代目の片岡我童、直義が五代目坂東彦三郎であった。

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文久2年(1862)3月 江戸中村座 高の師直=1坂東亀蔵 かほよ御ぜん=3沢村田之助
文久3年(1863)11月 江戸市村座 師直=3市川九蔵 若狭=4市村家橘 顔世=2尾上菊次郎

二代目国貞の作品。後の七代目團蔵の師直と五代目菊五郎の若狭という明治期の大立者同士の大序。判官は二代目澤村訥升。直義は三代目市村竹松

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文久3 年(1863)11月 江戸市村座 師直=3市川九蔵 若狭之助=4市村家橘 顔世=2尾上菊次郎
慶応元年(1865)師直=3嵐吉三郎 若狭=2實川額十郎 判官=2尾上多見蔵 顔世=1荻野扇女

上方役者絵の芳滝の見立作品。前年の元治元年(1864)大坂中の芝居で三代目嵐吉三郎の師直、初代實川延三郎(二代目實川額十郎)の若狭、顔世は荻野扇女と一緒だが、判官だけは画中の尾上多見蔵ではなく、六代目嵐雛助が演じている。
若狭と判官の衣装の色が現行とは逆になっている。

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慶応元年(1865)1月 大坂 高ノ師直=3嵐吉三郎 塩谷判官=2尾上多見蔵 若狭之助=2実川額十郎 かをよ御前=1荻野扇女

 

浮世絵は「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」より
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/digitalukiyoemuseum/2017/06/post-95.html

 

『仮名手本忠臣蔵』「大序」の備忘録 〜〜芸談・型・劇評など〜〜

※随時更新します。

一昔前の歌舞伎は実に創意工夫にあふれ、色彩豊かな芝居が繰り広げられていたことを諸先輩から教えられた。同じ芝居でも演じる役者により、様々な芸系が読み取れたらしい。

時代の流れは已むをえず、現在の伝承の糸は甚だ心もとない。

先輩の「芝居がひといろになることほどつまらないものはない。」の言葉を重んじ、様々な型の世界を覗いてみる。劇評には芸の規範を感じとる勉強になることは勿論、現行と違う演出が記載されてい場合がある。可能な限り劇評も拾うことにした。

またこの項では考証的な面を重視せず、巷間の言を記載する。伝承されている、されたことになっていることを一旦ここで卓上に上げることが目的だからである。

 

高師直

芸談

合引の高さ 13片岡仁左衛門

中合引よりもう少し低い合引に、大阪型では、師直が掛けたことがあるんですよ。これはやっぱり見た目が悪いですよ。合引に掛けていて一番困ることは、顔世御前が出ましてね、〽申上げたる口元に、下心ある師直は、小鼻いからし聞き居たる」という、ところ中啓を持って、こう構えています。(中略)両手でおさえて極りますと、それをします時、中合引だと形がつかない。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

7坂東三津五郎

師直は、三好屋のおじいさん(七代目市川團蔵)のが結構でした。「大序」で、顔世を口説いている間が、厭な奴で、皮肉で、而も色気があるのですが、ああ云うところは味ですから、何とも申せません。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

17中村勘三郎

大序で、顔世が出て来た時、身体を乗り出してニヤつくのは六代目型にはないので演ませんが、でも、多少、相好を崩す様にはやっています。若狭助と顔を見合わす、三ッ目の正面で、團蔵型の様に真正面に見合ってグッと睨む様にするのはおやじさんはしないので、私もこれをしません。併し、グッと反るのを三段にキッパリとやっています。初日には顔世への付け文を後見から受取ってやりましたが、これはうっかりとそうしたので、二日目からはちゃんと自分で出してやっています。この懐ろから出すのは、右からモゾモゾと出すより、右の袖口からハッキリと出した方が時代でキッパリとしていいと思い、明日からそうするつもりです。(中略)大序と三段目とでは、どっちも難かしいけれど、まア三段目の方が心持楽です。(加賀山直三/編、『演劇界』昭和33年4月号)

 

幕切れの型 13片岡仁左衛門

幕切れで、師直が足をかけて、カァーッと見得をきって幕にする人と、真正面向いて、下でこう袖を拡げておいてパッと前へ合せ、束で見得するのと、二タ通りあるんですけれども、あの錦絵なんかで、風流なのは、皆やっぱりこうやっていますね。段にあがらぬ型、上手正面むきで立って、判官がいて、若狭・・・・これ、時代で様はいゝんじゃァないですかね、段に上がらないで・・・。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

17市村羽左衛門 6菊五郎から教わった師直の性格

師直は敵役だけではいけない。色敵的な性格も併せもたなければならないと六代目から教わったという。また、風格を備えるために顔も爺のように黒過ぎてもいけないし、皺もあまり描いてはいけないとのこと。(市村羽左衛門 山川静夫 対談映像より)

 

批評・研究

カシラ

大舅(カシラ塗色・白)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

7市川團蔵の師直

幕切れの居所
明治42年10月東京座所演。「早ええわえ」で、今度は判官だけが坐る。師直は石段から降りて歩を進ませ、立っている若狭と附廻りになり、若狭が又切りかけると、判官が立って来て両人の真中へ坐る。師直は左の袖を横にしてこれへ中啓をあて、若狭を横に睨んだ形で幕になった。(鈴木春浦「忠臣蔵の大序」『歌舞伎の型』昭和2年10月 寶文館)

※この型は昭和30年2月大阪歌舞伎座で8訥子が復活したらしい。(志野葉太郎「仮名手本忠臣蔵の大序より四段目」ーー変わり演出のいろいろーー『型の伝承』平成3年11月演劇出版社

 

8市川團蔵が記録した7團蔵の師直

明治27年2月新富座 師直=3九蔵 若狭=7訥子 判官=2芝鶴 顔世=2多賀之丞

大序で中高の合引に腰をかけ、〽高の師直、でキッパリ極まらないので、つけも入れませぬ。顔世の、「ハアー」という声で揚幕をながめ花道から顔世の姿が見えると段々顔が崩れて笑顔になるのです。「還御だ」で石段に上がらず、居所のまま極り、上手へ行き高合引にかけます。「早え早え」があり、幕切れは二人とつけ回って師直が下手、真中が判官、上手に若狭之助で極ります。(8市川團蔵『七世市川團蔵』昭和41年12月 求龍堂

 

明治42年10月東京座で大序、三段目(裏門なし)、道行の三幕で出した。遠藤為春曰く「大序の師直で、若狭之助が這入るとき、下手、上手から辞儀をすると顔をそむける、トド正面から辞儀をすると、いまいましそうな顔をして、今度は若狭之助の方へ顔を出し、挨拶を受けるような様子をして、若狭之助が頭をあげると、師直も段々あげる。あの憎く憎くしさは、いまだに目に残っている」とのこと。

父の大序は、いつも段切まで演じます。他の人は、「還御」で、幕になるとばかり思っていたと見え、稽古のとき「オヤオヤ、大序にまだ、こんな所があったのか」といいました。(8市川團蔵『七世市川團蔵』昭和41年12月 求龍堂

 

「早えわ」までの幕切れ 戸板康二

戦後は、直義の行列が上手から出て、花道へ入り、そのあとについて判官と若狭助が行きかけるのを、師直が若狭助に対して「早えわ」と呼びかける幕切れまで完全に演じるようになった。この型は一時亡びていたのを、七代目市川團蔵が明治に復活したのである。(人形では、ここで師直が呼びとめる「早えわ」を、人形づかいが声に出していうことになっている。)(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

  

「早いわ」まで演っての幕切 三宅周太郎

昭和23年2月大阪歌舞伎座 師直=2猿之助 若狭=7三津五郎 判官=7宗十郎 顔世=3時蔵 直義=3段四郎

師直が二重上の見得は珍しい。これは平舞台で師直が上手、中に判官、下手に若狭と三人の見得が普通だ。尤も、先代段四郎のみ、大正四年の新富座の時、その師直は下手、上手に若狭がいて幕にしたが、当時の鴈治郎の若狭を大事にするため、先代段四郎が遠慮して下手にいたかと察せられた。(「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号)

※大阪で東京の役者による東京風の芝居だ。大阪では戦前必ずと言っていいほど「還御」までだったらしい。当時の関西人の目には珍しく見えたことだろう。写真を見る限り現行の幕切れと同じようだ。ちなみに同じ月京都南座でも忠臣蔵がかかっている。師直=6簑助 若狭=2鴈治郎 判官=6寿美蔵 顔世=10雛助 直義=11三右衛門 こちらは「還御」まで。

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昭和23年2月大阪歌舞伎座の舞台 師直=2猿之助 若狭=7三津五郎 判官=7宗十郎

 

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昭和23年2月南座 「還御」で幕 師直=6簑助 若狭=2鴈治郎

2延若の好色味は『歌舞伎 型の伝承』に詳しい

〽小鼻いからし」で延若はすべらした右手をその儘にして左手を添え前屈みに覗き込む形になるところや、顔世の肩に手を廻し抱く様な形になる所だの(これは今では誰でもやるようになったが、)好色な感じに溢れていて面白かった。(志野葉太郎「仮名手本忠臣蔵の大序より四段目」ーー変わり演出のいろいろーー『型の伝承』平成3年11月演劇出版社

 

戸板康二の2延若評

ぼくは延若では、何とも好色な、体臭のなまなましい師直のおもしろさを、まず忘れかねている。大序で、顔世御前の姿に見とれ、「小鼻いからしききいたる」という所で、上半身を斜めに倒して、じっと例の「蕩児の横目」を利かせたあたり、妙に行儀のよすぎる先代中車や、活歴風で木を噛んだような味のない先代幸四郎のを見なれていた目には、びっくりするほど、色気のある、いかにも歌舞伎の味の濃い高師直だった。 (戸板康二『新版 忠臣蔵東京創元社 昭和36年7月)

 

加賀山直三の師直評

私の見た中では、好色味一方の傾向は濃かったけれど、故延若が第一の人だったと思う。評判だった菊五郎のは丸本物のいろ気不足でそれ程ではないと見た。先代中車のはコチコチに過ぎ、幸四郎のは活歴気分と型の平談俗語式の出鱈目さに悩まされた。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

2鴈治郎は河内屋式の師直 児玉竜一 山田庄一 

児「二代目鴈治郎の師直はご覧になってますか?」
山「ええ、見てます。まあ、それなりに面白かったよね。やっぱり彼はね、河内屋。」
児「ああ、心酔だから。」
山「うん。心酔だから。だから河内屋式で、やってました。ただ江戸弁にはなってないんだけど。」
児「そうなんですねえ。ええ。艶っぽくないですか?二代目鴈治郎は。」
山「まあ、多少艶っぽいところはありますね。どうしてもそれは、芸風が、艶になっちゃってる。」(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』平成24年5月)

 

前進座 市村座第三回公演 三宅周太郎

大序は普通、亀松の直義、翫右衛門の判官、調右衛門の若狭之助、燕丈の顔世だ。この中では亀松がいい。長十郎の師直は大時代なやり方で悪くないが、ふけて見せようとするため、首や腰をかがめすぎて風采が揚がらない。(『続演劇巡礼』中央公論社 昭和16年7月)

 

5富十郎の師直 昭和58年12月歌舞伎座

上村以和於 評

型としては股間を押える、小鼻いからしなど、卑猥と言われる演り方をとっているが、それが変な芝居にならずしかもユーモアになる(『劇評』「仮名手本忠臣蔵」の役々 第34号 昭和59年10月

 

師直の台詞 上村以和於 二川清

上「師直でも例えば、「そでねえときは」を「そうでなければ」と普通に開いて言うのも、一つのやり方だけど、それならそれで通さないとね。
二「そうでなければ」と言いながら、一方では「さむれえだ」とやる。全部通してない訳。(「仮名手本評判蔵」『劇評』 第53号 昭和63年11月

 

17勘三郎の師直評

総じて世話味勝ちぎて品格崩れな点で評判が芳しない。(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月)や(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』平成24年5月)参考。

 

 二川清(17羽左衛門の師直について)「大童」なんてのも、もっと張って言わないと面白くないですよ。「清和源氏は」と言う処で切っちゃったり。サラッと言うだけで、要するに時代の味がないですよね。(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

 

若狭之助を打つ処 二川清 上村以和於

二「(17羽左衛門は)若狭の刀と胸を打つ処は、本当なら自分の胸を打ってから相手の胸を打つのに、自分の胸を打たない。」
上「あの世代の人でもそうなのかなあ。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

 

平成21年11月歌舞伎座 富十郎の師直の台詞

若狭を罵倒するところ、通常誰でも歌舞伎の入れ事で「バ、馬鹿な面だ」と言うところ、「うつけな侍だ」と言ったのは、なにを参考にしたのだろうか。(筆者メモ)

 

橋之助(8芝翫)の師直

平成中村座芝翫が師直を勤めた際は富十郎から教わった。(「芸に生きる」中村橋之助) 

塩冶判官  

芸談

・・・顔世の顔を見るか、見ないか・・・

7坂東三津五郎

5菊五郎の判官は、三方を持って入るところは顔世の顔を見ない演り方。ここは見てはいけない、見なくてはいけないという、両方の説があってよく分からないとのこと。6菊五郎は五代目通り見ない演り方だが、7三津五郎は見るという。いつか川尻清潭に聞いたら、昔の本には見ているものがあると言ったとのこと。直義が居たら具合が悪いが、もうその場には居ないので、見ていいわけとのこと。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

8坂東三津五郎

大序の判官で、六代目菊五郎は顔世の顔を見てはいけないと教えていますが、亡父(7三津五郎)は祖父守田勘弥から助高屋高助の判官が引込む時、立ち上がってちらりと顔世の方を見て引込むのが大変情があってよかったと聞き、それを私に伝えてくれました。(手を突いておじぎしている顔世を)それをちらりと見て置いてやると、四段目の顔世に情がうつるのだそうです。(『歌舞伎 虚と実』坂東三津五郎 玉川大学出版部 昭和48年10月)

 

6尾上菊五郎

大序の役々の中で顔世御前の顔を見ているのは、此師直だけで外の役は、一切顔世の顔は見ないのがいゝのです。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 

7尾上梅幸

この場は師直以外は誰も顔世の顔を見てはいけないという口伝があるとのこと。公式の場だから顔を合わせるのをはばかるゆえ。しかし、夫婦の情からしてそれとなく顔を合わせるのも良いという考えもある。なので、梅幸自身も一度顔を見合わせたこともあるが、具合が悪かったのでやめたという。(『季刊 歌舞伎』「忠臣蔵特集」第二号)(筆者注※17 羽左衛門は演り方について「(顔世の顔を)判官は見てはいけない。音羽屋系の口伝というのでしょうか。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』)と言っている。例えば、昭和61年2月の映像にある7芝翫の判官は、顔世の方を見て軽く頷く。菊五郎劇団に居た人だし口伝も当然知っているだろうが、7三津五郎の言うように見る見ないどちらの演り方もある。人によって色々な演り方があって良い。)

 

13片岡仁左衛門

塩冶判官が師直と若狭助にあいさつをしてから例の前に置かれた三宝の兜を持って立ち、顔世の方をチラッと見る。というのは、これはまァ、お客はハッキリ気が付かないけれども、役者には肝腎なことでね、あすこだけしか判官が顔世と目が合うところがないんですね。こゝは、芝の小父さんが(六代目菊五郎)がやかましく言われていたように、見ておかないと、もうあと夫婦の情愛を見せるところは一つもないわけですね。で、そこで、こう、御承知のように左手で持って、右手で長袴を持ち「大儀だったな」という気持ちでチラッと見て、入っておくと、大変に情がある。あすこを、知らん顔して入る人もありますけれども、これは是非顔世を見てやりたいものですね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

※六代目は見てはいけないという教え方が一般的に認知されているが、仁左衛門の目から見た六代目は少し違うようだ。

 

烏帽子について 13片岡仁左衛門

判官もこれ皆烏帽子についてる紐(房つき)を、挟んでいる人がある、(『勧進帳』の)富樫か何ぞのように。しかし、あれは絶対に挟んじゃァいけませんよ。時代物の姿なんだから、大序は。ですから、こう締めたら両方共垂れてなきァ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

7尾上梅幸

最初の人間になる時は、七五三の三の間で、一番穏やかに大人しく起る処に判官の性格があります。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

3中村梅玉 判官について

大序の判官はせりふにもただの一口で役がわるいようですが、これもこの節のように「還御」で幕にせずほんのすこしの事ですから段切まで行くと無言のままながら師直と若狭との応答を陰で見て一芝居あるので気もよくなりますし、判官だけでなく師直の役もよくなりますので、先年没した多見蔵さんの師直の時「還御」で打切らず段切までと主張されたことがありました。(後略)(「演芸画報昭和13年11月号)

批評・研究

 カシラ 

アオチとネムリの検非違使(油付き、烏帽子付)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

桃井若狭之助

芸談

左様にては候まじ 13片岡仁左衛門

(加賀山)「若狭助は、下手をすると喧嘩を売ってるように見えるけれども・・・・。」(13仁左衛門)「一番私たちやかましく言われたのはですね。「アヽ、イヤ、左様にては候まじ」という時の第一声が一番むずかしい。「左様にては候まじ」というと喧嘩を売ってるみたいでしょう?「左様にては候まじ」は、穏やかに言わなければいけない。あ、あいつ生意気だと、師直ならずとも嫌な奴だなと思われるからと、言われました。唯、義太夫なんかですと、早い言葉でいゝますからね、人間の役者が言う場合には、あんなに言わなくてもいゝわけですからね。注意するところは、そこぐらいでしたね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

批評・研究

カシラ

アオチとネムリの源太(油付、烏帽子付、カシラ塗色・白)

 

若狭之助の適役を考える上でのヒント 津金規雄

辰之助が生きていれば、この役は彼が一番良かったんじゃないかと思います。吉右衛門は明らかに仁が違うと思いますし、孝夫も役者が大きくなり過ぎている気がしました。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』 第53号 昭和63年11月

顔世御前

芸談

6尾上梅幸の『梅の下風』が有名。

 

兜改めのしぐさ 懐紙をくわえるか手に持つか

紅若が大序の顔世で兜を見るとき、懐紙をくわへ、両手を突いて、竜頭の出るまで一々首を振って、違う仕種をしたので、父が「あれでは犬のようで色気がない、左だけ突いて右手に懐紙を持ち口の所へやり、違うという仕種は、その紙でしたり、少し首を振ったりすると同じことばかりせずに済む。」(中略)後年東京座で、顔世を女寅が勤め、その次に歌舞伎座成駒屋が勤めましたが、前者は懐紙をくわえる型、後者は手に持つ型なので、「なるほど、さすがは成駒屋さんだ」と、紅若が感心していました。(8市川團蔵『七世市川團蔵』昭和41年12月 求龍堂

 

批評・研究

カシラ

老けおやま(唐毛すっぽり、花櫛、カシラの塗色・白)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

渥美清太郎

大序で大きく変わったのは、顔世御前。幕末までの歌舞伎では顔世は幕切れまで残り、師直と若狭之助の間へからみ、最後の三人の見得の時は下手に控えてお辞儀をしていたらしい。(「役者」第5号 昭和22年11月) ※但しこの文だけだと、”幕切れ”が「還御だ」か「早いわ」までのどちらを指すかが曖昧。

 

顔世の台詞について 三宅周太郎

(3代目)時蔵の顔世もあでやかで、故梅幸のそれが帝劇でやった時、花道が使えぬため、舞台下手ですべてのせりふをいった。それが例となって舞台でせりふをいうのが多いのに、時蔵は花道でいうのは古風で面白い。(「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号)

※一時の都合によって演じたものが”型”だと称されて伝わる危険を孕んでいる。

 

顔世の心

ここの顔世の師直との件は唯当惑して居るのである。上臈育ちで、斯うした危機の適当な処し方が分らず、唯もう千々に心乱れて当惑して居るのである。師直を憎らしさうに見たり、憤慨したり、若狭助に救はれ、ツンとすましてのうのうと花道を引ッ込んだりする人があるけれど、全然以っての外、花道の引込みには、虎口を逃れてホッとした思ひと、師直の怒りを買って夫判官に難を及びしはしないかとの憂ひに、救はれてイソイソ心配でシホシホの、入れまぜの気持なのだ。師直のツケ文を、袖口から出して、身体の後ろから廻してソッと捨てる。これは上臈の躾けのよさから来るエチケットと思ひ遣りを現す型で、その心持が出て居なければ何の事か分らないだろう。而も、さう云った人を往々に見かける。ひどいのは、後ろへ廻す科さをした後、ポンと下へ抛るのが居る。演者自身が科さの意味を知らないのだから論外である。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

顔世御前の素足

13片岡仁左衛門

岡鬼太郎は、大時代で古風な色気を出すには素足の方がいいという説。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

加賀山直三

艶色と大名の奥方としての品格、儀礼、淑やかさ、そしてそれらを全体を覆ふ丸本歌舞伎の奥方役、上臈役の、多少草双紙的な感覚がなくてはなるまい。その意味で、常に問題になる、素足か足袋を履くかは異議なく素足であるべきで、団菊流の本格とされて居る足袋派は、明治の第一期歌舞伎感覚破壊時代的な考へ方とすべきだ。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

「着るならば」 二川清

「兜に焚きしめ着るならば」を「着るなれば」と言う。こういう間違いは直した方がいいと思うんですがね。「なば」と「なば」は大きく違いますから。「仮名手本評判蔵」『劇評』 第53号 昭和63年11月

 

7芝翫の顔世について 津金規雄 上村以和於 清水一朗

津「一々リアクションするんです、兜を出す度に違うとか、とてもそんな物ではないとでもいうように笑ったり、馬鹿馬鹿しいといった顔をする。」
上「もともとそういう癖はある人だけどね。」
清「悲劇の原因となる女性の色が薄くなってる。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

足利直義

芸談

8 坂東三津五郎

直義の台詞について『歌舞伎 虚と実』に詳しく語っている。

「いかに師直」を甲から出ること。浄瑠璃をチャンと稽古しておいて、歌舞伎風に言えばよいので、ナマリは浄瑠璃と同じで、それを歌舞伎の若立役、若太夫の役としていうので、足利直義の品位と若太夫の位とがダブらなければいけない。

息のつぎ所にも約束があったり、「最期の時着つらん事うたがいはなけれども」ーーこれを息を間でつたら駄目。

 

13片岡仁左衛門

上手を向いて、人形のように、爪先をあげないで摺足で入るんです。段々もあれは一足ずつ降りるという、まァ武将と公卿とは違うだけれども、あの場面と位附けのためでしょうね。そういうふうに立派に見せる、こう右足から降りて、左足をそれにそえるというのは、人形足という。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

17市村羽左衛門

太夫筋の役者が勤める場合、金烏帽子の紐が紫、石段の上で草履を黒の木沓に履き替えて降りて、下へ降りると両袖を広げて廻る。

櫓元以外の役者が勤める時は、紐は白で、石段の下へ降りてから木沓に履き替えて、片袖広げて上手に向く。など細かに役者の位によって定め事がある。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

8澤村宗十郎

段から降りる降り方は三津五郎さんからも教わりました。降りてから袖を捌くのは、上手へ曲り乍らするのが普通で、大和屋さんも市村さんもそうなのですが、私は今度、正面向きで捌いて稍々きまってから上手向きになるキッパリとなるやり方の方にして見ました。(中略)二度目の出はキッカケが難しいのです。〽悪事栄えて」で勘三郎さんがお辞儀するのをキッカケに出ます。花道迄行き、〽直義公は悠々と」で、きまる様なきまらない様な風に一寸きまるのですが、このイキも難しいと思います。直義の役は、何もしないで簡単な役の様でいて、気のはる難しい役だと思います。(加賀山直三/編、「演劇界」昭和33年4月号) 

 

6澤村田之助

ここは役者の位取りが大切。「如何に師直」の台詞を師直が呂の声で「ははァ」と受けるのにはじまり、すべて客席の隅々まで通る心持ちで、しかも品位を保ってキッパリ言うのが定めとなっています。最後に顔世にいう、「目利き目利き」のてっぱりあたりになると、喉が干上がるような苦しさです。この役の沓と太刀は若太夫の家柄の者だけが穿くという話しも伺っていますが、どんなものでしょうか。(『季刊 歌舞伎』「忠臣蔵特集」第二号)

批評・研究

カシラ

若男(油付、切藁、金冠付、カシラ塗色・白)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

5八十助(10三津五郎)の直義 昭和58年12月歌舞伎座

上村以和於 評 

八十助の優等生らいし、きちんとした演技がいい。品も悪くないし、近頃の直義だったと思う。「ウタガイハナケネドモ」なんて口伝も、ちゃんと勉強してね。大序で第一声を発する人としてふさわしい。(「仮名手本忠臣蔵」の役々 『劇評』 第34号 昭和59年10月


木本公世の

「顔世大義」の辺に情があり過ぎる、顔をそちらへ向けますし。もうちょっと無性格に演る方が正しいんじゃないでしょうか。

という指摘は興味深い。これに対し

清水一朗は

今の役者にはそれが出来ない。ただ正面を切ってるだけだと、役になれないような気がするのかな・・・

と応じている。 

 

直義役者とは 上村以和於 津金規雄 清水一朗 木本公世

上「やっぱり太夫元の役でしょう」
津「芸もありますが役者の家柄などで嵌まる役じゃないですか。」
清「以前は市川三升がやったり関西では林又一郎がやっている。つまりそういう役者がやっても可笑しくない役なんだね、きっと。いわゆる抑えの役なんだ。最近では若手や女形が演ることが多くなった。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』 第53号 昭和63年11月

 

木「争われない高貴さみたいなものが欲しいですね、白塗りの貴公子という。」
清「あの役はそうでなくてもいい。最近は概して白塗りで若い役者がやってるけど。以前は年輩の人もやってる、菊次郎とか九朗右衛門とか。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

 

8坂東彦三郎の直義評 上村以和於 二川清 津金規雄 

上「彦三郎は台詞がモゴモゴする不足はあるが、一応きっちり演ってる。今の直義としては悪くない。」
二「声は悪くないが、ただ一本調子で変化がない。」
津「こういう役の場合は一本調子でも、何となく聞いていられる気がするんですね。」
二「有名な「兄尊氏に滅ぼされし」とか、「後醍醐帝より賜りし」をちゃんと一言で言う。ここの処は随分勉強してる感じがしたが、その後の肝心の難しい処「十二の内侍の」が駄目。五七五で切ってる、前の方はちゃんとやってながら、勿体ないと思う。(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

 

直義について 加賀山直三

今では声変り前後の御曹司の役なのだが、私は見なかったけれど、五世福助など、近世最高の直義であった筈だ。品位、鷹揚さ、すずしさ、規格正しさ、若々しさなど殊に必要な役で、第一声の発声を上から出すべき約束が端的にこれを証明して居る。私の見た中で、時々呂の声を出す人があったが、そんなのは完全に落第である。いろいろな人の中、多少芸に不足があっても、十六代羽左衛門など、絶好の直義役者の風格を具へて居た事を思ひ出す。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 道具

唐櫃について

8坂東三津五郎

近頃幕が開いた時、真中に唐櫃を置いてありますが、あれは銀杏の木の前に置いてあるのが昔のやり方で、「御上意の下侍」というところで真中へ持ってきたのが、いつの間にか、幕の開いた時から、真中に置いてあるよになったのです。それからその唐櫃も大正年間から白木になったので、その前は木目を画いた、「太功記」十段目の鎧櫃と同じ物だったと父から聞きました。(『歌舞伎 虚と実』坂東三津五郎 玉川大学出版部 昭和48年10月)

 

8坂東三津五郎

七代目三津五郎が「(櫃が)昔は白木じゃなかった。白木になったのは堀越のおじさんからだよ。その前は鎧櫃と同じように杢目が書いてあった」って。それが九代目から、今の形になったというんです。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

藤浪与兵衛「唐櫃に〆縄を張った方がいいというのと、張らないでくれというのと両方があり、金物の錠前も、鉄にしてくれというのと、金にしてくれというのとあります。」
長谷川勘兵衛「さっきの銀杏の木にも〆縄を張るのと、張らないのがあります。」(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

銀杏の葉を定まりの黄色から六代目彦三郎の提言で青い葉に変え、岡鬼太郎がこれに怒った楽屋話の一部が挙がっている。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

13片岡仁左衛門

(唐櫃)の位置について。この頃は下手に置いてあるが、儀式性を重んじれば最初から真中に置いておく方が良いという見解。11代目仁左衛門は白木の櫃を嫌ったそう。木目を書いた黒っぽい櫃で〆縄もなし。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

昔の道具 長谷川勘兵衛

大序の道具も昔はずっと単純だったらしいです。高足の二重へ石垣の蹴込みを当てて、その中央に石段、後に石の玉垣を置く・・・そんなものだったようですが、私が知ってるのは今のとおりです。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月)

 

口上人形・東西触れ

8坂東三津五郎

口上人形の、「役人替名トザイ東西」と呼ぶ東西声も座頭だけが「トザイトザイ東西」と三声、あとは二タ声。あいだにはいるエヘンエヘンの咳払いも役者の格式によって二タ声の時も、三声の時もある。(『歌舞伎 虚と実』坂東三津五郎 玉川大学出版部 昭和48年10月)

 

口上人形のはじまり

安永2年(1773)市村座で、初世尾上菊五郎が由良之助・勘平・戸無瀬三役を勤めて『忠臣蔵』を出した時にはじまる。明治のころまで、口上人形は人形浄瑠璃方に借りに行ったものだという。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号 昭和43年10月) 

 

清水一朗

開幕前の口上人形の台詞も役者が幕の後からであっても台詞が客席に通らないようでは困る。歌舞伎座ときはマイクを使ってたのは驚いた、今回は使ってないと思うけど(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月) 

 

13片岡仁左衛門

東西触れにも大阪式があったという。つまり三つ五つ七つの順番で言うという。また柝を打つのは出打ちをしてほしいとのこと。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

蛇の目廻し

蛇の目廻しは、昭和4、5年頃まで歌舞伎座にあった。間もなく内廻しを壊したそう。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

その他

各役々については六代目菊五郎の『藝』に詳しい。

 

明治40年11月歌舞伎座忠臣蔵一日替り(由良之助より三人の猟人迄の役々を一日替り)興行の批評は三木竹二『観劇偶評』載っている。

 

13仁左衛門川尻清潭から、漏斗に座らないで真正面を向かなければならないということを学んだ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

13片岡仁左衛門 動きの技巧

お辞儀の仕方一つにしても、もう簡単にすッとお辞儀をするだけだけれども、やっぱりお辞儀をする前には、こう袖を両方に払って、顔を見て、改めてお辞儀するというだけの間がいるわけですね。ただ、こう、すッとお辞儀をしただけでは、具合が悪いんです。こういう一寸した動きにアヤをつける歌舞伎の技法とでもいいたいものが、今日の歌舞伎のすべてに渡ってどうも欠けて来ていると私には思われます。現代劇とか新作物は別ですけれどね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

浜村米蔵 並び大名について

直義の菊之助が上上吉だ。即ち大だ。おっとりしていて品位がある。何か犯し難いものさえある、これは本当に頂上である。いつまでもこの持味を忘れないで貰いたい。困ったのは、うしろの並び大名のうちで、左右いずれの目のつき易いところで、人形ぶりでないのが一人宛居る。別に行儀が悪いというのではないが、頭を下げていないのである。或いは、当人たちは下げているつもりかも知れないが、顎を引いている位で目も半眼でない。みんなが一様に下げているので、ひどく目障りである。(「忠臣蔵」の通し 『演劇界』昭和41年1月号)

 

雑式について

こう石みたいなのを置きましてね。その石に腰をかけているんですよ。これはおかしいです。とんでもないことだと思うんですが、あれは昔はちゃんとしゃがんだものだけれども、今のように変な石に腰をかけるぐらいなら、むしろ隠れた小さい合引でもした方がいゝんですけれどね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

清水一朗

雑式が合引の代りに箱を置くのは変だな、兜改めのときに下座の前に残ってるのは異様です。(中略)あれは合引で後見に片付けさせるべきだと思う。(「仮名手本忠臣蔵」『劇評』 第14号 昭和55年5月

 

清水一朗 上村以和於 津金規雄

清「もう一つ疑問に思うのは、下手の黒御簾の前に控えている雑式が腰掛けている細長い箱のようなもの。確か52年のときは小さな箱でした。それがいつの間にか、長い箱を置くようになって雑式がそこへ腰掛けるようになっちまった。」
上「あれは蹲踞しているんでしょ。」
津「寺子屋の捕手と同じ形でしょうね。あのときはかなり長い間我慢しているのに、何故できないのだろう。」(中略)「それも演出の崩れですよ、そこを今回はきちんと正して行くべきだったんじゃないかな。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月)

 

還御で幕切れにするデメリット 上村以和於

「二タ月とも「還御」で切った。時間が短くなり、時間だけじゃなくて短くなった方が全体が引締まるとう面もあるが、善悪両方ある訳で。「早ェわ」が巧く行くならいいけどね。ただ「還御」で切ったために決定的に詰まらなくなのは幕切れ、若狭が切りかかるのを判官が止めて見得になる。大序だけでなく後の三段目につながる作意がね。初めて歌舞伎を観た人は若狭之助を浅野内匠頭と思って見ている訳。それが三段目に来てドンデン返しになるのが作意にあるはず。それをあそこで象徴して見せる面白さがなくなっちゃうのが、詰まらないね。(「仮名手本評判蔵」『劇評』 第53号 昭和63年11月

 

大序の儀式性を保つには

清水一朗

大序は一種の儀式でそれを進めて行くには、形容が出る。そこの踏まえ方が足らなくて、演技で写実にというギャップが、大序の”格”を崩していると思う。(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月 

 

清水一朗 上村以和於

清「”格”のことでは舞台を誰かがきちんと見ておいてくれないといけない。一番気になったのは大名たちの頭の下げ方、自分の背丈で下げるから中には浅い奴もいて、客席から見ていると全く不揃い。それに総体に芝居の時間が延びてると思うな。」
上「延びてる延びてる。無駄に歩いて時間が多い。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』 第78号 平成8年8月

 

佐藤俊一郎「最後に一つ。顔世を呼び出す声がきっぱりしていて良かったですね、誰だったでしょうね。」
清水一朗「そういう役が皆いい加減になっている時代だからきちんと褒めておくべきですよ。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月)

 

羽左衛門梅幸 渡辺保

六代目菊五郎羽左衛門梅幸に「歌舞伎会」を通じてこの芝居をよく教えたという。(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』47号 平成24年5月)

歌舞伎会・・・会長・遠藤為春、主事・川尻清潭とし、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、七代目坂東三津五郎らが指導し歌舞伎座若手俳優を指導した。

 

警蹕の声 

床の呼びで全部が目ざめると、同時に床の文句が切れ、一同シーイッと警ひつの声とともに平伏する。このシーイッと云うのと黙って平伏するのと二通りあるが、羽左衛門菊五郎幸四郎の団菊流のは必ず発生して居た筈である。(加賀山直三「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号) 

 

菊五郎劇団の東西声 神山彰

大序の「とざい、とーざい」の東西声も、梅幸の頭取の梅次という人がやるんです。他は全然ダメな人ですが、この東西声だけは絶妙の響きなんだ。すると、実に一族で判官を支えているという空気が伝わる、何も知らない観客にも伝わると思いたい、そういう要素は大事だと思います。(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』47号平成24年5月)

 

※敬称省略