三階席のメモ(歌舞伎が多め)

三階席の素人客が、感想メモやら気になった記事をとっておいた。この場を借りて自身の備忘録とする。

『仮名手本忠臣蔵』「三段目」の備忘録 〜〜芸談・型・劇評など〜〜

 

「大序」から「〜〜芸談・型・劇評など〜〜」編では長たらしく抜粋した文を記載している。自身の備忘録としてスタートしているのだから、参考文献を挙げればそれで済むはずだ。事実その方が抜粋より、オリジナルの文脈で正しく読めるから、文献にあたった方が良い。

しかし、わざわざこうして簡略化して載せたのは一応の理由がある。例えば、固定化した演出の現在の歌舞伎に対しての疑問。本来なら家に伝わる演り方や、その人に合った芸風やニンがあるはずなのに習う先生(役者)が一緒になってしまい、芝居が一色になって詰まらない傾向がある。往時の役者の演じ方を知り、客席側からもっと提案することもあるのではないかと思い、そのための取っ掛かりとして作成した。

また、こうして見比べてみると発見もある。例えば九代目團十郎の若狭之助は、引っ込む際に「プッ」と吐くだけというのが一般に認識されているが、七代目三津五郎の話しだと「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にて」の台詞を言ったかのように記録されている。実際は日によってどちらも演ったのかもしれないし、或は記憶違いとかの可能性もある。だが、権威ある批評家の言が一旦活字化されるとそれが絶対視され、後世にも固定化の影響を与えかねない。要は、一つの事柄に対して複数の出典を可能な限り用意することにした。

 

※随時更新します。

進物場

時太鼓と調べ

幕明きは「時太鼓」と「調べ」の二通りある。板付きと空の舞台 の場合で使う下座も変わるらしい。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

姿を見せた師直

昔は、原作通り師直が駕篭内に姿を見せていたらしく、「いろは評林」の師直の条に、嵐三五郎の三段目は「本蔵の追従への喜びは、とかく端敵めく。烏帽子、大紋の筆頭職が喜ぶ体を見せねばならぬ」などと記されている(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

本文通りの演出 志野葉太郎

ここに師直が登場するという本文通りの演出を前進座がみせたことがある。(昭和7年市村座)長十郎の師直が大序そのままの烏帽子大紋姿で駕籠から出、挟み箱に腰かけて本蔵と応待していたのがそれで(後略)。

※普通は手を鳴らすか、その都度駕籠の御簾を動かす。 

喧嘩場

御簾の間の刃傷 富田鉄之助

人形の方に「御簾の間の刃傷」という古い演出がある。師直が判官をさんざん罵って奥へ入ると、判官は口惜しさを堪えているが、我慢出来ぬ体に脇差を抜き奥の間へ入ると、道具替りで大欄間の一面に簾の下りた座敷になる。バタバタで師直が、すでに眉間に一刀浴びせられた体で、簾を破り逃げて出る。このとき、簾がバラバラになりその間から判官が現れる。諸大名が抱き止めると判官が抜身を投げて〽上を下へと」の段取りになる。歌舞伎でも天保以後、時々この演出を見せていた。最近では明治二五年の角座で、仁左衛門が、同じく大正十三年の本郷座で左団次が、この演出を見せている。しかし、これは”腹立ちしまま前後見境いもなく”という本文からみて、判官の些かの思慮を感じさせるというのが初演当時の世評であった。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

御簾を切り破る演り方 服部幸雄

これは明治二十五年に角座で出した時の記録があるのですけれども・・・。この時は、師直が十世仁左衛門、判官が初世右団次です。師直がさんざんに罵って奥へ引っ込むと、あとは判官のひとり舞台で、しばらく歯がみをして口惜しがり、我慢できなくなって脇差を抜き、向うを見込んだまま奥の間さして追いかける。ここで柝なしで舞台が廻ると、舞台は二重で一面に御簾がおりている。バタバタで師直は既に眉間に一刀浴びせられていて、御簾を破って逃げてくる。この時、御簾がバラバラになって、その間から判官が現われる。大名が大勢で判官を抱きとめると、判官が師直めがけて抜身を投げるのが柝の頭、ということのようです。もともと人形の方にあった型だそうですが、先代左団次の本郷座の時もこれをやっています。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

変型演出

姿見の師直が有名だが、天明以後、「鶉献上」とか「照月の一軸騒動」とかの挿入もある。

 

昔と変化 11田中傳左衛門

道具が収まってから、それで止め柝で床が語る手順だが、そこへ昔はかぶせて鼓を打っていたそう。打っているのが床の詞に附いているとのことで、大阪では演っていたそうだ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

”松の廊下”の松について 8坂東三津五郎

三津五郎が舞台美術家の長坂元弘に「大奥障壁画図鑑」を参考に、実際の松の廊下のスケッチをとらせた。六代目菊五郎がそれを参考に「小松」(ヒョロ松)で二度ほどやったことがあるそうだ。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

昭和12年11月歌舞伎座での写真を見ると、通常とは異なる小ぶりの枝で描かれている。(「思い出の舞台」第299回 平成28年10月国立劇場 歌舞伎公演 パンフレットより)

 

正面が張壁か襖の違いはある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

「幕三重」について 如月青子

三段目と四段目をつなぐ幕三重については、おかしな点がある。”実録”の感覚に支配されるあまり、”仮名手本”ということが忘れられている。「花献上」というものを考慮すれば幕三重とはならない。永山会長は六代目のときにも演っていたから、それをそのまま受け継ぐという考えらしい。ただ、伝承、伝承といっても何となく気楽にやったのが型になっているものもある。13仁左衛門も自身の父の記憶から、つなぎは昔はなかったと語っている。(「芸歴八十六年 感謝の日々に思うこと」『歌舞伎 研究と批評10』平成4年12月15日)

裏門

裏門の勘平の性格

服部幸雄「古い錦絵に、あの場の勘平は荒若衆で、荒事で演っているのがあります。」

17羽左衛門「股立を取ってるでしょ。」

服部幸雄「時代物の浄瑠璃によく出てくるそういう気分の役だったのでしょう、本行のほうでは・・・。ただし、あの場面だけです。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

師直と勘平の早替り 8市川團蔵

ずっと以前、父が師直と勘平を勤めたとき、三段目で切られ、舞台が回ると麻裃、股立を取った勘平で立っていました。見物はあまり早いので驚いたそうです。それは舞台をゆっくり回すうちに衣裳と鬘をつけ替え門に穴をあけて、そこに鏡があり裏向きで門をたたいていると見せかけ、顔を拵えていたのでした。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

 

荒事の勘平 8市川團蔵

この三段目の勘平は和事ですが、それを筋隈、大太刀で荒事で出たことがありましたそうです。それは安永八年森田座忠臣蔵で、五代目団十郎が演じたときです。五代目は外に本蔵を勤め、師直、定九郎、平右衛門、天川屋は初代仲蔵、由良之助とおかやが四代目団蔵です。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

※道行旅路の花聟

おかるの衣裳 戸板康二

道行のおかるの衣裳は、御殿模様の型と、矢絣の型とふたとおりある。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月) 

 

おかるの衣裳 上村以和於 二川清 清水一朗

上「この前菊五郎幸四郎と踊ったときにも矢絣に模様が入ってた。矢絣なら矢絣、裾模様なら裾模様とすべきですね。本来は矢絣のもので、大阪型の「裏門合点」から逃げて行く訳ですから。」

二「梅幸までは矢絣でしたよ。」

上「歌右衛門の系統が裾模様で・・・・。」

清「何であんなことをやるのか、お浚いだよあれじゃ。」(「『仮名手本忠臣蔵』の役々」『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

おかるの衣裳 二川清

志野さんが、六代目梅幸は御所鴇の大時代な衣裳だったけど、今はみんな五代目歌右衛門系統の小豆色になったのは、少し淋しいと言われていますが。(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

9澤村宗十郎のおかる 二川清

宿下りの御殿女中を喜ばせようと書いた場面ですから、たいした中身がないんですよ。それにしても宗十郎辺りが踊ると、お軽の気持ちがちゃんと出るんで、菊五郎もあそこらまで行って欲しいと思います。お辞儀一つにしたって、玉三郎菊五郎はただ頭下げてるだけ、宗十郎が演ると本当にしみじみとした心持ちが出る。(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

鷺坂伴内 上村以和於 清水一朗

上「市村鶴蔵は珍しい型で、進物場の装で出てきて引き抜いた。」

清「八代目中車が演ってます。花道で引抜いていつもの拵えになる。これはご馳走で演る役です・・・この前も言ったけど、幕切れが決まっちゃった。伴内が下手から閉まる幕を引く型に。」

上「あれ自体はいい型で栄えますけど、いつもあればっかりだからね。」

清「白鸚が伴内が演ったとき、花四天を組ませてその上に乗り、見送ったことがある。」(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

伴内の引き抜き 2又五郎

伴内は、『三段目』で股立取った裃でいますが、そのまま追いかけてきたということですから、裃で出て、振りの中でそれを取ると、鹿の子の襦袢になるという演り方もあります。いまは、初めから襦袢で出てきますが・・・・。伴内の役は、いい役者さんがお付き合いで出るということもあります。「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成1310月 演劇出版社

 

二人の出 田村素

板付きなのも五代目歌右衛門からですが、中幕の時はいいですけど通しだと「五段目」とつく感じがします。花道から出て花道を入る方がいいですね。(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日) 

高師直

芸談

師直については五代目菊五郎の「尾上菊五郎自伝』に詳しい。

 

・・・歌の読み方・・・

 

短冊を読む 2市川左團次

例の歌を読む処も余りいろんな人があって、四五度も繰返すのは可笑しゅうございますから、今度は一番先にすたすた読んで、変だという処で読み返し、下の句を半分口の内でいって、一番末の文句を一寸聞えるように云う事にしてやっています。文箱も坊主が持って出るというのもありますが、寿美蔵と相談して自分が持って来る事にしました。其れから「あずまえびすの知らぬ事」という師直の白がありますが、「あずまえびす」は師直の事という話があったので、其れも悪いと思って止め、又最後に短冊を見て此れがある為に心持が悪いと黙って判官の顔に打付け何んにも云わぬ事にしました。(『歌舞伎』第111号 明治42年10月)

 

6尾上梅幸

三段目足利館殿中で師直の読む短冊は一度師直が袂へ入れますが、短冊は三ツに折るべきもので之を二ツに折ったり四ツに折ったりすると其人の芸の拙ないのが知られます。
顔世の手蹟を褒められる件りは東京座で私が判官を勤めました時は、師直が三好屋(団蔵)の叔父さんでしたが、伴内が居残って居て『斯う伴内、見事な手蹟だ』などと云っていました。それから『さなきだに、おもきが上の小夜衣・・・』の歌を一度読んでオヤという気持で、二度目には『我が夫ならで』から読直して、それから伴内を奥へ入れました。築地の叔父さんは『松花堂を学ばれたな』等と云いました。
此時の大序には三好屋の師直が腰をかけて居ました。(『梅の下風』演劇出版社 昭和28年10月)

 

8市川團蔵が記録した、7市川團蔵の師直

三段目は若狭之助について這入った伴内が出て来て、師直が捨てぜりふをいって頭を下げている袖を引くので、若狭が奥へいったのに気づき小声で、「アノ小僧め、ほんとに切る気だったなーーイヤ馬鹿ほどこわい者は無いナ」と苦笑いをする、そこへ判官が出ます「伯州殿遅刻でござるぞ」と伴内にいわせる。文箱の条りになって、渋い顔を急に解きます。短冊を読むときは、上手で伴内が燈りを見せ、一度はすらすらと読み、筆跡を誉め、二度目に「ーーわがつまならぬつまな重ねそ」でちょっと気を変え、「ーー此歌に添削とは、ムム」から段々顔色変り、判官を見ると伴内は気味悪そうにこそこそと這入ります。切りつけられる所は、「その用は」と判官がいうので、「ナニ、ナニ」と皮肉に聞えぬ体に耳を顔の近くへ出す、その隙に切られるという演方で、だいたい時代でなく地でいきました。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和41年12月13日)

 

歌の読み方 17市村羽左衛門

「松の廊下」で私が六代目から師直の役を教わって演った時に、顔世から届いた短冊を読むのは黙読なんです。最初は声を出さない。それで判官に「お手前、この文御覧じたか」「いいえ」となってから「さなきだに・・・」と声を出して読んで聞かせてやるという肚なんです。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

師直の立場 3實川延若

「さなきだに」の歌は、普通、どなたも声を上げて読みあげますが、あの返歌は、幸いに師直の恋を刎ねつけたからよいが、もし逆だったら、判官の工合いの悪さはありますまい。人の女房への付け文ゆえ、返事の如何にかかわらず、音読は出来ますまい。また判官への病いづかせは、コミッション不足よりも、遙かに悋気嫉妬に出発しているのと違いますか。私はそう考えて演っております。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

※2延若の型 志野葉太郎

二世延若ははじめ黙読して直ぐその意味に気付き、判官に「この歌を御覧じたか」と言ってから声を出して読んで聞かせるというやり方で、六代目もこれに近かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

7坂東三津五郎が見た7團蔵の師直

「三段目」でも、様子が厭な感じで、それで下品ではありませんでした。「鮒ええ」のところなど、重味があって、あれなら判官が怒るだろうと思えました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

師直は判官に怒ってはいけない 17市村羽左衛門

師直は判官に怒ってはいけない。「この野郎、怒りやがったな、もう少し驚かせてやろう」と、からかう気持ちがあって、向こうが怒ってきたな、と思ったらピシャッと押えつけて、また顔色見ながら、「この野郎、もっと怒らせてやろうか」という気持ちで演らなくてはいけないと言われました。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

懐紙の上を叩く 17市村羽左衛門

判官を師直が中啓で叩く時は、懐紙をめがけて叩くと音が鳴るという。(「文楽と歌舞伎に見る 仮名手本忠臣蔵山川静夫氏インタビューより)

 

6尾上菊五郎

それで判官が刀を抜き掛けると、利き腕をポンと打って、『殿中だ』と言って、四つ這ひに上手へ逃げて振向くのが『テン』と太鼓の掛りで、『サア斬らッせい』となって傍へ行き、判官の刀を脇の下へ抱込むように、身を押付けて寄り掛って行くのが紋切形であり・・・(後略)(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

※こうした廉々が極まると、散文的にならずに芝居が面白くなると思われる。 

 

17中村勘三郎 

師直は岳父(菊五郎)のやり方です。豊ちゃん(松緑)がよく知っていますから、今度改めて訊きに行き、自分でやって見せてくれたので、その通りにしています。尤も、姿見はやめ、喧嘩場の最初の辺りを大紋でやるのも止しましたけれど・・・。(中略)三段目で六代目式に姿見をやるのを止したのは、大序では合引が使えるので形が付くのですが、ここでは合引が使えないので、あの大紋姿で合引なしではペチャンコになって恰好が付かない為に止したのです。
おやじさん(六代目)の師直は大層うまく工夫されているので、例えば、「本性なら、御身や、どう、する、よ」でグッと判官に顔をつきつけ、判官を見ると、判官が凄い感じの顔になるので怖くなって退がる、そうすると判官が刀に手をかける形が付けられるんです。そうしないと師直の体が邪魔になって判官は刀に手をかけられませんからね。
「殿中だ」をハッキリ上手の方へ向いて云うのも岳父の型です。あれは普通上手へ向いて云うにしても捨科みたいな感じになる方が多いのですけれどね。(加賀山直三/編、『演劇界』昭和33年4月号)

 

「粋様め」と「御案内」 13片岡仁左衛門

若狭助が「さほどでもござらぬわえ」と払う、これも変りありませんね。(中略)で、「それご案内ご案内」と。それから今度は師直について言っておきますけれども、あそこは一番おしまいのセリフがね、「粋め、粋め、粋様め」というのがしまいで、「御案内御案内」というのとね、「粋め、粋め、粋様め」を先に言ってしまうのと二タ通りあるんです。師直が仕勝手で言うんで。あの私たちの方は丸本仕立てに大体近い方だから、「粋め、粋め、粋様め、御案内々々々」〽主従寄って」と、こうなるんです。そうすると、それで、あの、パッと払って、此方を師直の方を見てますから、右の肩をね、こう入れるよう顔をしてジッと見ながら上手へ廻って、つかつかと出て、行って、グッと睨んで、黙ってフウッと入れば、一番いゝ型なんですがね。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

その用は 

17羽左衛門袴の裾を踏みつけられたあと、「その用は」と言う時、離れたら斬られてしまいます。「「その用は」で顔と顔が真近にあれば斬れません。これは自分の考えです。

2又五郎「うちのおやじさん(初代吉右衛門)も、耳ほじりながら「なぁに」と顔を近づけました。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

4市川左團次

三段目で判官とのやり取りで、市村(十七世羽左衛門)のおじさんに、師直は判官に問題を起こさせようと、相手の顔色を見ながら、こう言えば怒るか、次はこうすれば怒るとかいじめるが、大名同士なんだから喧嘩に見えてはいけない、と教えられました。喧嘩にならぬように心して演じます。(歌舞伎座パンフレットより 平成25年11月1日)

※喧嘩場と言うものの、あそこは喧嘩の場面じゃない。師直は判官より高い身分。立場も気持ちも対等ではない事を忘れないよう言われたとのこと。(平成28年10月国立劇場パンフレットより)

研究・批評

カシラ

大舅(胡麻の惣髪、掴み立て、動きのフキ眉)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

・・・歌の読み方・・・

川尻清潭

「さなきだ」の短冊を読む処、一度黙読して二度目に調子を付けて読むのもあり、この時に指先で眼頭のヤニを拭いたり、又は、鼈甲の大眼鏡を掛けて見るのもありますが、眼鏡はあとの邪魔になるので、遣わない人が多いようです。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

二川清 上村以和於  清水一朗

二「渥美清太郎さんだったかが、黙読して後一回しか読まないのが本当だったって言ってますね。」

上「延若の芸談だったかに、『何が書いてあるか判らない訳だから、迂闊に読んではいいけない。だから一回しか読まない』って、これも一理窟だけど、お客に判らしてくれなきゃ困るんだ。矢張りあの歌の『褄な重ねそ』の謎を徹底させて置かないと。」

清「和歌は百人一首の読み方から言って、下の句を二度読んでもいいと思う。二回目をきちんと読んで最後の『褄な重ねそ』を突っ込んで読めば、その意味が取れるはず。頭から三遍も読んじゃおかしいよ。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)  

・・・短冊の扱い・・・

三木竹二

(初代市川猿之助の師直は)顔世の短冊を中啓で開いて載せるのは面白く、燭台の下(雪洞の時もある)で斜向きに見る形は絵になっていた。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月) 

※中啓を扱うのと、燭台を使用するのが変わっている。

補足)手燭の場合も

此場で伴内に手燭を持たせて出るのは、勿論正七つ(今の午前四時)の暁の寅の刻を見せたのですが、その蝋燭の灯で顔世の短冊を読む事にしてあって、眼鏡を遣うのもありますけれど、跡で邪魔になるでしょう。(六代目尾上菊五郎 『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 

戸板康二

この短冊はあとで、喧嘩のおわりに、師直が途中からひねって判官に投げつける小道具になっている。しかし、ここまでする必要も、ほんとうはないようだ。戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

※短冊を投げるような師直は見たことがない。昔はそういう演じ方もあったことがわかる。六代目まで手順として記録に残しているが、現行で演らなくなったことに言及がないのにはどうした訳か。

例)

初代市川猿之助の師直 三木竹二

「切れ切れ切れえ」の体を判官へ持たせ掛けた形「若狭殿へ」で膝へ手を掛けて立上る途端(はずみ)に袖口から短冊を落し、それを円めて投付ける(はこび)「何ぞ用か」で振向いた形は、いづれも好い。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月)

六代目尾上菊五郎

結局短冊を両手で握り捻って、『東夷の知らぬ事だ』と判官へ投付けて悠々と行掛けるのを、袴の裾を踏まれて切られる段取で終わります。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 ・・・鮒侍・・・

鮒のたとえ 川尻清潭

それから憎体口の台詞の中では「御前の方はお構いないじゃまで」とか「勤める処はきっと勤める武蔵守」とか、「如何にハングワン」と呼掛ける処など、それぞれ極り所となっていますが、判官を井の中の鮒に譬える所で、鮒の死ぬ有様をして見せるのに、両手を横伸して手先を、鰭のようにブルブルと震わせるのは古い型。別に中啓をぶらさげて、鮒に見立てるのを、七世中車が見せたことがありましたが、それは感じが出ませんでした。」(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

※七代目中車(七代目市川八百蔵時代)の明治40年11月歌舞伎座の一日替わりででの師直の演技が『観劇偶評』記録されている。

補足)六代目尾上菊五郎

鮒の死ぬ有様をして見せるのに、両手を横に伸して鰭の動く形にするのと、乃至は中啓をぶら下げて、鮒に見立てるのとありますが、前の方が古くから行われている型です。(『藝』改造社 昭和24年7月30日)

 

志野葉太郎が見た師直 7中車 2延若 7幸四郎

判官をいじめる台詞は以前は我流で饒舌なのが多かったが、最近は無難な方に統一されてきた。(中略)ここの師直は大序に比べると出頭第一としての品格にウエートがかかってくるからである。その意味で七世中車のは正に規格品的であった。(中略)〽出放題」でも打たんとして中啓を振上げるが打つのを止め、左手を後ろに廻し身体を大きくそらすので右手が判官を指す形になるといった具合に行儀のいいこと無類といってもいい師直だった。だがそれだけに師直の人間描出には不満のあるのは免れず、さりとて二世延若の油っこい好色味もここでは品位に欠け、七世幸四郎は我流が多すぎるといった具合に、七段目の由良之助同様、歌舞伎の中で最も至難な役柄であることを思わせる。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

鮒侍だ 〽出放題」

7八百蔵(7中車) 右の中啓を振上げ、気を変えて左を下へ突き、中啓で判官をを差して笑になる。

1猿之助 「鮒侍れえだ」で右の中啓で判官を指して、左を口に翳して笑ふ形(後略)(三木竹二『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月)

2延若 右手の中啓を左手に当て、それを左膝に立てて極るのが変わっていた。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

今の芝居の物足りなさ 二川清 上村以和於 清水一朗

二「鮒侍の件など吉右衛門は平坦口調なんですね。」

上「四段目もそうだけど、師直に限らず全体的に丸本物の芝居じゃなくなっている。」

清「『鮒侍だ』で中啓で判官の胸を打って、師直が後ろに反るきまり方、勘三郎はここを凄く大きくやってる。処がどっちもちまちまと、團十郎は後ろに左手を突いてないほど。吉右衛門は少しは反ってやってたけどやや斜に構えてる。そういう処を突っ込んで演って、役の強さを出すのが大切だと思うが、どうにも物足りない。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

 

17中村勘三郎の師直 渡辺保

渡辺保「前がとにかく陰気なんです。だから六代目の取り方も、直に手を取って教えられた松緑と、それから見て取ろうとした勘三郎との違いがある。」

児玉竜一勘三郎は、松緑に教わってるんですよね。」

渡辺保「それじゃ孫弟子ですね。」(「座談会ーー昭和の忠臣蔵」『歌舞伎』47号 平成24年5月)

 

17中村勘三郎への評 津金規雄 上村以和於 木本公世

津「高家筆頭の男が這いつくばるから面白いんで、べらべら世話っぽく演って這いつくばっても、ちっとも面白くない。そこの落差が全然出ませんね。」

上「若狭に這いつくばって、その後「小僧」と言う面白さ、プライドの高い男の鬱屈がある。そこへ判官がのこのこやって来て師直にぶつかるという、そこがドラマんでね。」

木「男同士の確執がある訳でしょ。勘三郎だと何だか岩藤めく・・・。」

上「若狭よりも判官よりも師直は男性的なんです。あれは男のプライドの闘いなんですよ。」

木「勘三郎の芸質が女性的というのは語弊があるかも知れませんが、そういうやわな処が出てる訳ですね。大序から三段目にかけて。それは非常に面白いけれども、男の自尊心のぶつかり合いといったある種のテーマを殺す結果になってもいるんです。」

上「だから下世話になっちゃった、大序から既に漫才なんです。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月10日)

 

師直の勘所 津金規雄

吉右衛門は素みたいで普通の話し方のようです。武智さんが、師直は『刀を投げ出しておるぞ』って処が大事だと言っているんですよ。あそこで師直の口惜しさというか苛立ちというものが表現されないと意味がないって。それを『投げ出しておるゾォ』なんて言っては、とても後の腹立ちが活きてこないですよ。(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)  

 

拵え 川尻清潭

師直の鬘はこの方も大序も、薄く雁金を付けるのが定めですが、同じ鬘でも本蔵は、雁金を付けないことになっています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

・・・変わり型・・・

姿見の師直 戸板康二

「喧嘩場」では師直が、舞台で衣裳を着替えるやり方がある。三代目中村歌右衛門がはじめた型で、若狭助とのやりとりがすんでから、茶坊主に鏡台を運ばせ、烏帽子・大紋の正服に着替える。このあいだに、大名が次々と廊下を通るのを呼びとめて贈物の礼をいったり催促をしたりするので、俗に「姿見の師直」と呼ぶ型だが、六代目尾上菊五郎が第二次大戦の前に復活して見せた。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

※姿見の師直の手順は『五世尾上菊五郎自伝』に詳しい。着替えた素襖は「お身様に斬られれば本望だ・・・」で烏帽子を取り、それから素襖をとるのだという。

 

大紋烏帽子の師直 服部幸雄

原作では、当然ここの師直は最初から大紋烏帽子ですね。〽花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子」とありますから。歌舞伎の中でも古い時代には大紋烏帽子で演ったのですが、判官をいじめる部分の演技を写実にやるようになると、あの衣裳では邪魔になってしまうので、今のような姿に変わったといいます。ところが、見た目に変化をつけようという気持があって、「姿見の師直」 のようにあの場で衣裳を変え、その間に通る大名たちに応接するといった演出をくふうしたのでしょう。あれは、三代目菊五郎の型といっていますが、本当は三代目歌右衛門がはじめたのだそうです。「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

一日替り忠臣蔵 町内で知らぬは・・・ 富田鉄之助

昔は大名題が「一日替り忠臣蔵」をよく催したという。昭和に入っても何度か行われた。明治二七年(※原文ママ 明治十一年十一月の誤りであろう。)新富座で、団・菊・左の顔合わせに、上方の大立者中村宗十郎が加入した「一日替り忠臣蔵」が行われた。この宗十郎の師直は、例の「遅い遅い」で、判官から顔世の文を受け取り、嬉しさのあまり彼を入らせてしまう演出である。「何と町内で知らぬは亭主ばかり」などと伴内にいって悦に入り、歌を繰りかえし考える。伴内が「これは妻を重ねる・・・。判官にも貴方様にも」というのを、「黙れ」と大きく叱り、ふたたび判官を呼び出す段取りだ。これは、駒田屋芝喜蔵などもやった上方の古い演出だそうである。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

薄縁か板の間か 8團蔵の伝聞

このときに「忠臣蔵」が出て、播磨屋の師直に松嶋屋の判官で、初日に三段目で、薄縁が敷いてあるのを、松嶋屋が「アノ場は座敷ではない、松のお廊下だ、畳があってはいかぬ」といって二日目に薄縁をとらせたのです。すると播磨屋が「なんで敷かぬのだ」と苦情を出したので、訳を話すと「それはいかぬ、刃傷のあった所は、お廊下かは知れぬが、そこが芝居、第一板の間へ坐るのが、よっぽどおかしい」といって三日目に敷かすと、また松嶋屋から小言なので、掛りの者も困じ果てて前の知恵者に相談すると、「コリャ私にも工夫がない、殊に双方の立者を、へこますこともできないから、苦情の出た方の顔を立て、翌日からその通りにしたら好かろう」といい、毎日小言の聞き役ができ、とうとうその興行中、一日置きに薄べりがあったりなかったり。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和411213日)

※活歴の影響を受けた面白いエピソードだと思った。

注釈)・このとき=明治29年6月大阪角劇場 ・『近代歌舞伎年表・大阪篇』によると 師直=初代時蔵(後の三代目中村歌六) 判官=四代目嵐橘三郎 若狭=三代目我當(後の十一代目片岡仁左衛門)なので差異が見られる。

塩冶判官

芸談

〽判官腹に据えかねて」と幕切 6尾上梅幸

それから『判官腹に据えかね・・・の件りで白扇を打って後へ投げる人がありますが、之は品格を落としますから、其様乱暴なことをせずに一寸膝から手をすべらすだけにする方がよいでしょう。』

幕切に判官が左手を延ばし、右の手を胸のところで開きますが、其開いた右手の親指が丁度乳のあたりへ来れば形が好く見えます。此辺では抱止めた本蔵の顔を振返って鳥渡見なければいけません。(『梅の下風』演劇出版社 昭和28年10月)

※白扇を後ろへ投げるのは7宗十郎もしたことがある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

三段目の方が四段目より難しい 3中村梅玉

判官という役は四段目より本当は三段目がむずかしいのです。四段目は自分で工夫をして無事切腹まで行けばよいのですが、三段目は終始師直の芝居を受けていねばならないのです。早く怒り過ぎては奥が持ちきれませんし怒るキッカケがわるく遅すぎても芝居が面白くなりません。(『演芸画報昭和13年11月号)

 

7坂東三津五郎が見た5菊五郎の判官

寺島のおじさんの判官は、「三段目」になりまして。そう動きはなかったのですが、よろしゅうございました。師直に当てこすりを云われ、「あちらの喧嘩の門違いとは、判官更に合点ゆかず、むっとせしが」でむっとして笑いますが、「御酒機嫌か、こりゃ御酒参ったと見えました」と云って、それから師直がいろいろ云っています間、「貞女な奥方」で、一寸下を見たりして、最初の間は、「何を云っているのか。」と云った調子で、段々段々怒って来るところが、よろしゅうございました。それから例の「鮒侍だ」になり、「判官腹に据えかねて」のときは怒りますが、まだ斬るほどには怒りません。それで、次の師直の「本性だ、本性なら御身ゃなんとする」で、「本性なれば」と云って、刀を抜きかけますが、このときは、師直へ怒りますが、刀へは思わず自然に手がかかったと云うやり方でした。師直の「殿中だ」で、今も六代目がやりますように、刀を袖へ隠しますが、ここは人によると、刀の下げ緒を、柄に捲くやり方もあります。それで師直が、「切れ切れ」で体を判官の方へ寄せますが、そこで判官が我慢するところが、またよかったのです。「暫く暫く」と、少し向うへ押して、あやまります。「その手は何だ」で、「この手はーー両手を突いて」と云うのが、これは本当に口惜しいのを堪えているようで、「お詫び仕る」の台詞は、下へ押し付けて、小さい声でした。成程、寺島のおじさんのを見ていますと、口をきかなくても、堪えてあやまっていると云うのが、はっきり分かりました。五代目も、「あすこで、大概見物が褒めるが、見物に褒めさせてはいけない。見物に同情させなくてはいけない。」と申しておりました。
判官が御馳走の役を「拙者めに」と云いますのを、師直が、「イヤ、若狭どのに」のときには、これは本当に怒ります。そして短冊を放って、「東夷の知らぬことだわ」で、長袴の裾を踏まえます。「まだ用があるか」で、「その用は・・・」と云うときには、もう家を身も構わず、本当に斬る気でした。そこで師直はに斬り付け、止められて、刀を放りますが、そのとき、手は握らず明け放しで、「上を下へと」で、師直の方へ気をやりながら、幕になるのです。幕切れで、判官が、一寸後ろを振り返って、誰に抱き止められたのかを見る人がありますが、それは理屈ですが、気が抜けますから、「仮名手本忠臣蔵」ではどうかと思います。寺島のおじさんも、後ろは振り返りませんでした。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

※本蔵を見返すことに否定的な意見が興味深い。

 

文箱について 服部幸雄 17市村羽左衛門 2中村又五郎

服「判官が文箱を師直に差し出しますね。あれは、いま普通に演る音羽屋の型だと下手の襖から茶坊主が出て来て差し出します。本文は、判官が手に持って出ます。そういう演り方もありますね。」

羽「あります。」

又「大阪の型でしたかね。」※13仁左衛門は自分で持って出る演出だった。

服「どうして音羽屋の型では自分で持って出ずに、茶坊主に持たせることにしたんでしょうね。」

又「御主人に持っていかせるのはおかしいですよね、理屈から言って。「裏門」で腰元おかるが文遣いになって持ってくるんですから。」

服「おかるの手から勘平に渡されて、勘平経由で直接判官が文を持ってきて師直に差し出すことになってる。だから、師直が「この文御覧じたか」と問いただすこと必然性があります。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

喧嘩場の判官 7尾上梅幸

この場の顔は、少し刷毛で砥粉をかけ気味にし、目ばりもほんの少し墨を加えて濃くして居ります。そうです。大序の時より、すこしキッパリとした加減です。ここの判官の中心は、「大名の怒り」の一言に尽きます。はじめは、「この爺い何をいう」ぐらいの気持であしらっていて、「鮒侍だ」あたりでカァッとなる気持です。ツー、テンで刀に手をかけ、ジリジリと輪を画いて寄ってゆき、師直と交互に表裏に替わる形は、音羽屋独特の行き方です。なお、刃傷の幕切れで抱止められるとき、ちょっと後ろを振り返って本蔵の顔を見るのが、後の四段目で、「加古川本蔵とやらに抱き止められ」につながるひとつの心得になっています。(「仮名手本忠臣蔵 細見」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

梅幸から教わったこと 7尾上菊五郎

大序の判官は大名らしく鷹揚に演じ、三段目でもピリピリせず、師直と対等に喧嘩しているように見えてもいけません。段々と怒りをためて、『気がちごうたか』と声を高く言って『武蔵守』と低く言い、師直役に『黙れ判官』と大きく受けてもらうと好い芝居になる、と父(七世梅幸)に言われました。(歌舞伎座パンフレットより 平成25年11月1日)

 

刀が突き刺さる型

服部幸雄「斬りつけるのを本蔵に抱き止められて刀を投げつけますね。あれが上手の柱に突き刺さってピッと立つ演り方がありますね。」

2又五郎「昔はいつもそうでした。」

17羽左衛門「仕掛けになっていて、持ち直して投げると、柱にピッと立つようになっています。」

服部幸雄「この頃、演らないことがありますね。」

2又五郎「たいがい演りますけどね。ただね、あれ、刀を放るのが大変なんですよ。上手の屋体の中にちゃんと入ってくれないと、刀が二本になってしまいます。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

※”持ち直して投げる”というのが難しいのであれば、「盛綱陣屋」のように投げる振りをして処理すれば間口が広く、上手屋体まで距離のある歌舞伎座でも演じられるのではないか。芝居としての風情を求めたい。

 

刀がささる型 8坂東三津五郎

以前は刀をポーンと放ると、上手の柱にブスッと立ってね、あれなんかおもしろいと思うんだが、最近やらないことがありますね。ぼくが関西へ行く頃までは、いつもやってました。「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

研究・批評

カシラ

アオチとヨリ眼の検非違使(櫛洗い、油付、前はし箱)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

・・・文箱・・・ 

戸板康二

茶坊主が下手から持って来る近頃の型よりは、花道の出で判官自身がもって出る型のほうがいい。しかし、じつは必要に応じて、後見がうしろから(人形の場合のように)判官に渡してもいいのである。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

 

判官がおかるから勘平を経て届けられた文箱を、自分で手に持って出る人がある。十五代目市村羽左衛門はそれであったが、見た目が「本朝廿四孝」の御殿で勝頼のはいる時(謙信に文箱を渡されて使いに行く)と感じが似る。六代目尾上菊五郎の時は、下手から茶坊主が出て渡す。岡鬼太郎は「後世のお家狂言臭くなる」といい、自分で持ってくるほうを「理窟なしでいい」といっている。しかし、本文には「袂より文箱取出し」とあるので、懐中して出る型も、あったらしい。これは、じつは人形で当然するように、後見がうしろから渡してもいいのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

文箱の受け渡し 志野葉太郎

6菊五郎 判官が舞台にくると同時に下手から茶坊主が持参する。

15羽左衛門 「何かは存ぜねども奥顔世より文箱が参っております云々」と披露してから手を叩いて茶坊主を呼び詰所に取りにやらせるという工夫のかかるやり方。

1魁車 他に茶坊主が花道から持参するという。

3梅玉 単刀直入に自分で持参

懐に入れてきたことにして後見から受取るというやり方もある。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※15羽左衛門に対する文箱の記述でも、見た年度の違いによるのだろうが戸板氏と志野氏で記録が異なることに注意。昔は演じ方を試行錯誤していたことが窺える。

 

・・・本蔵を振り返る・・・

幕切れ 川尻清潭

前側から判官をとめる大名は、膝を突いて背を低くして判官の上半身を見物へ見せること。同時に判官は、手先を開いた両手を上手へ伸ばし、体を揉む科をし、無念の表現に、指先きを握るのもありますが、幕切れには上手向きの顔を稍正面にして、幕を締めるのが本格な歌舞伎のやり方です。又、判官が抱きとめられる時、一寸後ろを振り返って、加古川(或は梶川)の顔を見るは、近年に行われ始めたことですが、相当に重く用いられて、一つの型になっています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

戸板康二

判官が切りつけ、師直が上手へ逃れる。判官の刀が上手の柱に立つのは古風な演出である。この時、判官の俳優は抱きとめた加古川本蔵の顔を、観客にも印象づけるように、ぜひ振りかえってはっきり見る必要がある。それが、九段目の本蔵の死に直結するからである。(『名作歌舞伎全集』第2巻 東京創元新社、昭和43年9月)

 

昭和23年2月大阪歌舞伎座 7澤村宗十郎・判官の評 三宅周太郎

「この手」をついてを、「両手」をついてというのは困る。それ以上刃傷の幕切れで、抱きとめた本蔵の方をちらと見ぬのは判官の性根に欠ける。これは一体誰が自分の邪魔をするかと、芝居をして芝居にならぬようとめ手を見るのが、判官の一つの心得になっているのだ。壽美蔵は流石」にやっていたが。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号 昭和23年3月5日) 

 

(12團十郎の判官の)本蔵を見ることについて 清水一朗

「抱きとめられて本蔵の顔を見るのも口伝にあることなのできちんと見る。見てるけれどこれは前の合評会でも言ったけど、顔を見るのは『邪魔をするのは誰だ!』って心持ちで見るんであって、見る型だから見るんじゃないはず。それがただ見るだけとしか思えない。」(二川)「今は皆そうですね。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

 

見返ることについて 佐藤俊一郎 上村以和於 津金規雄 清水一朗 二川清

佐「幕切れに判官が振り返るでしょう、あれはいけないっていう人がいる。山口廣一さんなんか。」

上「あれは六代目が教えたんだ、あそこで本蔵の顔を見ておけって。山口さんはすべからくそういう六代目歌舞伎に反対の人だから。どちらにも一長一短あるんで、その背後にあるものも含めて読まないと。確かに顔を見ておくのも一つの用意ではあるけども。」

津「ただ今の人たちだと、さあ見ますよという感じになっちゃうから。」

上「一、二、三という具合にね。」

清「梅幸の幕切れは見るのがちゃんと形になっていた。見て、向き直って柝頭になっている。」

上「この問題は前にも『劇評』の合評会で話してありますよ。要するに、あそこで一番大事な性根は師直を追撃することなんで、その時に本蔵の顔を見るのは一つの心得なんです。」

清「追撃が甘いから刀を投げるのがおかしくなってる、ただ襖の間に放り込んでいるみたいで。刀が柱に刺さる演出はいつの間にか止めてしまったが、あれも一つの形容で面白かった。」

二「昔なら投げる振りをして、きちんと決まったんでしょうね。」

上「幕切れも追いかける姿勢、つまり『対面』の五郎と同じポーズをしなきゃ。その後、また動くのはいいけど。師直を追いかけることは当然であって、ただその際に振り向くのが心ある者の用意だぞ、嗜みだぞという意味なのに、そこだけが残って追いかける方がどっかへ行ってしまう。」

清「その辺は梅幸だときちんとしていたが、菊五郎になるとごちゃごちゃしてしまう。口伝がだんだんその通りに読まれてなくなっている。」

津「当時は追いかけるのは自明だったのが、分からなくなってしまい、付けたりの方が大事だぞと、そっちへ中心が行ってしまった。」

上「書かれてないことの方が本当は大事なんだ。分かり切ったことは書かなかったんだから。」(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

刀を刺さるのをやめたのは・・・ 清水一朗

あれはいつから止めたんだろう。勘三郎の判官は演っていたと思うが、梅幸は演らなかった。処がいつの間にか勘三郎も演らなくなった。(『仮名手本忠臣蔵』の役々 『劇評』第34号 昭和59年10月10日)

 

・・・判官の怒りの表現・・・ 

川尻清潭

〽あちらの喧嘩の門違いとは判官更に合点ゆかず、むっとせしが押鎮め」の処、昔は判官が腹立の思入れをしたり、又は〽判官腹に据えかねて」で膝を突いている扇を、へし折って後ろへ投げたり、乃至は袴を摑んで口惜しい様を見せたりするなどは、近頃殆どやる人はなく、だんだんと腹に据え兼ねる仕科の方が行われています。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

三木竹二の記録(明治40年11月歌舞伎座) 

5芝翫(5歌右衛門)「判官腹に据ゑ兼ねて」の斜向の顔は間伸びになり「気が違ふたか武蔵守」の白廻は、抑揚に乏しいので押が利かぬ。「師直お待ちやれ」は女になり「その用」で肩衣を脱いで懐紙を下へ置く科の暇取るのは気が抜け、短刀を投付けての無念の表情は、例の笑顔になつて終つた。

6梅幸 「判官腹に据ゑ兼ねて」で一旦正面に直つて、「気が違ふたか」で裏向きになるのは形が変わつて好く、その後は先づ一通といふ処。

3訥升(7宗十郎)それから師直に嬲られる間、扇を突いてジツと科は引立たず、上手斜向になり過ぎたのも場面の配合上面白くない。「両手を突いてお詫申す」の手を(ふる)はしながら突くのは好く「その用は」の気組は充分、幕切上手へ気を掛けて体を顫はせながらの表情も好い形だ。(『観劇偶評』渡辺保・編 、岩波文庫  平成16年6月) 

〽判官腹にすえ兼ねて」で扇を後ろへ投げていた。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

15羽左衛門 ここでツケを入れていた。後の「両手をついて」(「この手をついて」と言わない)(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

大阪方 梅玉、魁車は表情過多のためか鮒の話の間から怒りすぎるきらいがあった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 

辛抱和事としての判官 加賀山直三

判官は、大大名の怒りと云つた歌舞伎芸味を見せるのが眼目である(中略)この役は、元来、和事の大大名を表現する型として代表的な役だつたのであらう。それが、この忠臣蔵に限つて、他の丸本時代狂言より飛び離れて写実化した演出法を採用する様になつた為、純和事から可成り和実に近付いて行つたものではないかと思われる。併し、根本は飽く迄も和事なのだから、変にカツチリと緊張した、いろけや粘りツ気の薄いのでは困る。大名らしい鷹揚さ、ふくらみ、穏和さ、その穏かなお坊ちやんの大人化した人物が不当に虚められ侮蔑されるのをじッと辛抱して居る哀れさ、それだけではいけないのである。歌舞伎の貴族の辛抱和事役のいろけと粘りの芸味と、その芸味の持つ風情と感覚が、どうしても不可欠なのだ。菊五郎以後の判官にはそれの不足が多い。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

紀伊国屋音羽屋系の判官 加賀山直三

今にして思へば、先代宗十郎の判官は、例の和かな役だと逆に無闇に強がり、いきむ癖はあつても、そのぶち壊し的な悪癖をわざと見たいに積み重ねつつも、結局ぶち壊しきれぬ自然のその味が底にデーンと腰を据ゑて居た貴重さを、私はつくづく思ひ出されてならないのである。十五代羽左衛門のは、辛抱役の粘りのある和か味の点で外れて居た代りに、古くからの紀の国屋系と違った音羽屋系の水気に長所があつた。菊五郎のはその音羽屋系の水気を、彼一流の心理歌舞伎芸で殊更艶消しした芸味であり、芸の巧味は十二分ではあつたが、私は之を採らなかつた。今ではこの系統の人として梅幸が絶好の人と云へるが(後略) (「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

リアルさ一方への疑問  二川清 上村以和於 津金規雄

二「七代目宗十郎なんか、そこで大見得切ってツケ入れたのを、三宅周太郎がいかにもひどい演り方だってけなすんですよ。それで六代目が「殿中だ」でハッとやる処は、素晴らしいって絶賛する訳。」

上「それは三宅周太郎が善意でやったことが、悪い結果を招いたんです。確かに六代目はそういう処のイキは良かったんでしょうけどね。」

二「そのリアルさが受けたんですよ。大正文化人に。」

津「今はそのリアルの逆を行かなければいけない時代ですよ。むしろ古風な芝居風な演り方をもう一回復権してみないといけない訳で、だから劇評の読み方も当時の三宅さんの読み方を、ただ文字面だけじゃなくて、何故そう言ったのか、その前にあったことは何なのかまで読まないと、分からなくなります。」

二「だからツケ入りの見得をやったって、今はいいと思うんですよね。」

 上「『忠臣蔵』東西競演で、鴈治郎仁左衛門が演った時、ツケを入れなかったかな?」(「戯園百寿諧評談」『劇評』第78号 平成8年8月10日)

 

判官の刀

江戸では判官も若狭も黒柄の刀をさす。関西は白柄だという。江戸は武士に遠慮したという説。(「忠臣蔵版 新・御狂言楽屋本説」『季刊 歌舞伎』第二号)

 

明治34年11月〜12月 京都歌舞伎座 8市川團蔵の記録 

このとき、大阪で芸の虫といわれる、璃珏さんが勤めたのですが、浪花座のときの丸々とした伊丹屋と違い、ほっそりとした小男で顔は火傷で引釣のある方ですから、関西で判官は男前の好い人はやらないのかと、私はおかしく思いました。

その豊嶋屋が、役のきまったとき、伊丹屋の宅へいき、「今度顔見世で判官を勤めますが、初めて一座する三河屋さん故、呼吸がわかりません。どうか教えて頂きたい」と頼むと、伊丹屋は笑って、「他の人なら教えるが、お前さんにはどうも」といったそうです。

初日が出て、父が「伊丹屋の判官は、大阪式でうま味があり、豊嶋屋は江戸式でうまい、殊に三段目で(昨日鶴ケ岡ではこんな様子がなかったが、今日はどうして、こうつらく当るのか)と心中に思い、初から立腹しない所が良い」といっていました。

このとき父は、京都木屋町に家を借り、東京から京、大阪へ荷物を送るため、顔見世打揚げ後、私は東京へ帰りました。(八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂 昭和411213日)

注)・このとき=明治34年11月〜12月京都歌舞伎座公演。・璃珏さん=四代目嵐璃珏 ・浪花座のとき=明治34年10月大阪浪花座公演。 伊丹屋=四代目嵐橘三郎 

  

「殿中だ」か「鯉口三寸」で刀を隠す 二川清 上村以和於 清水一朗

二「確か六代目の型で今梅幸もそうですけど、『殿中だぞ』で刀にてをかけたままジリジリと寄って行く。昔の三宅周太郎さんの劇評みると、六代目は『殿中だ』でハッとして袖で刀を覆ったとある。処が晩年は今皆がやっているみたいに変えたらしい。」 

上「つまり『殿中だ』で刀を抑えない判官はとろい訳ですよ。『殿中で鯉口三寸』って言われてからハッと気付くんじゃ遅い。」

二「今のやり方の方がやりいいでしょうが。」

清「どんな型にしろ、演る人に合うかどうかですね。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日) 

桃井若狭之助

芸談

花道の出 2中村又五郎 17市村羽左衛門 

又「播磨屋(初代吉右衛門)の演り方では、若狭之助の出は長袴の紐を締めながら出るんです。」

羽「私が教わった九代目の型というのは、『対面』の五郎みたいなんです。揚幕からツカツカツカと出てきて、雨落の位置で、ヒイフウミイとジリジリジリ寄ってくる。そのかわり、真っ直ぐ本舞台へ入ってしまいます。」

又「播磨屋も後ろを振り向かなかった。ツカツカツカと出て来て、揚幕寄りの七三のところで、袴の紐を締めてきまるのがテーンになるんです。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

15市村羽左衛門の出について語る 13片岡仁左衛門 加賀山 11田中傳左衛門

仁「十五代目は打ちッぱなしですよ。だから花道は昔の七三では止まらないで、ずっと今の七三の所までいっちゃうんです。」

傳「これは仲町の宗之助さんもそうでした。」(初代澤村宗之助

仁「そうです。それが一般の昔の型です。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

9團十郎の喧嘩場

17市村羽左衛門

あそこの若狭之助が、九代目(團十郎)と他の方とでは違います。九代目のはほとんどせりふを言わない。「馬鹿な侍だ」と、普通は言うんですが。(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

7坂東三津五郎が見た九代目團十郎の若狭

「三段目」では、師直が御機嫌を取るので、当てが外れ、「これはと思えど是非なくも」で、「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にてーー」から、「武蔵守は犬侍だ、以後はキッと慎しまっせい、馬鹿な侍だ」と云うところが、九代目の若狭之助はよろしゅうございました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月)

 

馬鹿な侍だ 13片岡仁左衛門 加賀山直三 11田中傳左衛門

加「馬鹿な侍だ」は言わない方がいいんですか。

仁「えゝ、言わない方がいゝんです。ところが、大阪では、それは大変に長セリフが入るんです。純上方の演出だとね。〽これはと思へど若狭助」でツツーッと返って坐って、「御執頭それへ出さっせい、出さっせい、ズズズッと出さっせい。鶴ヶ岡に於いて拙者への悪口雑言・・・」と、そこですっかり喋舌ってしまう。

傳「あの宗之助さんがそうでした。仲町の宗之助さん・・・・・。」

仁「言いましたか。」

傳「えゝ、言いました。」

加「時々その型の人が出ますよ。それから、具体的なことは一寸忘れましたが、変っているなアと思った印象では、お宅(松嶋屋)の十二代目の若狭之助。何か、いつものとは随分変わった印象でしたね。」

傳「あれ、宗之助さんの場合はですね、もうすっかりしゃべっちゃって、「犬を切る刀は持たぬ」そして「馬鹿な侍だ」と。」

仁「犬を切る刀のセリフがあり「犬だ、犬だ、犬侍だ、身不肖なれども若狭助、犬を切る刀は持たぬ。以後はきっとたしまつせい。ばばばかな侍だ」という。しかし、東京の方は大体言わないことになっていますね、この頃は。

傳「言わない方が多うございます。」

仁「言って悪いことはないけれども。言わない方がいゝと岡先生も言っていられました。」

加「あの「馬鹿な侍だ」は、十五代目(羽左衛門)は言ってませんでしたから。」

仁「いゝましたよ。私はあのセリフをいうのも悪くないと思うんですが。」

加「あんまりくどいのは嫌ですけれどもね。」

仁「あれが、お客が喜ぶところなんで・・・・。」

傳「少しぐらい悪口雑言いわないと、何かお客さんの方が胸に落付かなくなって。・・・(笑)」

加「明治の腹芸式になりすぎる感じがするんでしょう。」

仁「だから、私はね、一遍ね、東京では好まれないか知らないけれども、そういうのをやる「忠臣蔵」を、一遍見ておいて欲しいと思います。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)  

研究・批評

カシラ

アオチとネムリの源太(油付、武士髷)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

  

團十郎の若狭 川尻清潭

師直が帯剣を投げ出して詫び入るので、若狭は怒る張合いも抜けて、「馬鹿な奴だ」と言う心に、「ブツ」と吹いて長袴を蹴立て、早舞いの太鼓で入るのは、団十郎の型として、今日に伝えていますけれど、中には、「犬侍」の台詞を言う人、又、単に、「バ、バ、ばかな侍だ」と、言い捨てて入るのもあります。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

 

理想の若狭之助 加賀山直三

腕と人柄と役者振の三拍子が揃つて居なければならず、その点では十五代目羽左衛門こそ殆ど理想の若狭助役者とも云ふべきであつた。殊に彼のよかつたのは、前述、花道七三での一廻りして片膝ついてのきまり迄の殺気に水気を含んだ情緒を、自然の味に加ふる芸の鍛錬でジックリと見せたことに在つた。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

15市村羽左衛門の若狭之助 戸板康二

若狭助の癇癖をうまく演じた十五代目市村羽左衛門は、ここで一旦上手に行きかけ、師直の前へ戻って来て、もう一度鶴ヶ岡(大序)のことを云い立ててののしる入れ事をしていたが、これは余計なことのようだが、心理のバランスからいうと、それを平伏したままきいていた師直が、若狭助の行ってしまったのを確認してから、「小僧め、もう行ったか、馬鹿ほど怖いものはないのう」と師直が低い声でつぶやき、せせら笑う照応がよく利くのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

若狭それぞれ 

9團十郎 

何か言おうとして怒りがこみ上げてプッと吹くだけで入ったという。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日) あるいは、

「馬鹿な奴だ」と言う心に、「ブツ」と吹いて長袴を蹴立て、早舞いの太鼓で入るのは、団十郎の型として、今日に伝えていますけれど『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) という記録がある一方で、

「これはと思えど是非なくも」で、「御出頭、それへ出ませい、先日鶴ヶ岡八幡にてーー」から、「武蔵守は犬侍だ、以後はキッと慎しまっせい、馬鹿な侍だ」と云うところが、九代目の若狭之助はよろしゅうございました。(『三津五郎芸談』和敬書店 昭和25年12月) という、結果真逆のことになっている記録もあるのである。

1鴈治郎 

「御出頭以後はキット心得さっしゃい」(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

15羽左衛門

 花道から出、見廻しながら一廻りして七三で坐り、舞台をキッとみて右手をポンと膝につく派手なやり方。昭和12年は、「先つ頃八幡宮において云々」の台詞を言った。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日) 

17羽左衛門 

團十郎型として、中程で足を割りそれをジリジリと寄せていって七三で坐るというやり方。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

 ※「喧嘩場」の若狭之助の花道の出の手順は、川尻清潭の『演技の伝承』に詳しい。 

 

鷺坂伴内

芸談

エヘンバッサリ と 片足を出したら 17市村羽左衛門 2中村又五郎

羽左衛門 「本蔵に斬りかかるところのキッカケは「エヘンバッサリ」と「片足を出したら」の二とおりあります。しかし、われわれは小さい時から、俗に「エヘンバッサリ」と言ってます。」

又五郎「死んだ吉之丞(初代)の伴内は、足を出す演り方でした。」(「『忠臣蔵』芸の伝承」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

エヘン、バッサリ 田中傳左衛門 13片岡仁左衛門

傳「それから、あのエヘン、バッサリのとこ、播磨屋の系統と二通りございますね。あの、左の足ですか、右の足ですか、片足地についた時にバッサリ、アハハと笑うとバッサリというのと、・・・・」

仁「私の父だとか、大阪の役者はね、「エヘン」とか「フン」とか言う癖のある伴内なんです。

傳「成程。」

仁「自分で意識しないから、身共が「エヘン、と言ったらバッサリだぞ」と。約束したとおりに、特に「エヘン」と言う癖がないと生きないということを言っておりました。こういう伏線を張っておかないといけないんです、だから、これは上方の役者の考えですけれど、つまりそういうように、上方の役者は、神経が細いというか、写実派なんですね。(後略)」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

「夜露はお身の毒」と「敷居が高うござる」までの関わり 11田中傳左衛門 13仁左衛門

傳「あの箱登羅さんの時代には、バッサリの方はどちらだったんですか。」

仁「サァ、あちらの方は、右の足だか、左の足だか、片足出してバッサリの方じゃァなかったかしら。」

傳「東京では、(初代)吉右衛門さんの系統は足の方でございましたね。」

仁「足が多いんですよ。大阪は。だから、播磨屋の小父さんという方は、大阪で修行して見えたから、大阪型が相当入っていますね。それから、あれは、もう御承知のように空舞台にあって、チョンで廻りまして、・・・・。」

傳「この廻る方に時太鼓。」

加「その前に、伴内の「夜露はお身の毒でござる」がありましたね。」

仁「それは、「夜露はお身の毒」ともいうし「敷居が高うござる」と二つありますね。ま、その程度のことはどちらでもいいんじゃァないんですか。「敷居が高うござる」の方は、つまり、これも先輩から聞いたんですけれども、「あなたは小心者で、こういう高い敷居をまたいたことはないだろう」ということを加味しているんだと・・・。」(中略)

傳「あの播磨屋さんの系統の方ですと、そこでまたバッサリとやりかけて、「敷居が高うござる」というと、敷居を越すとこで足を上げかけるところでバッサリ・・・・。」(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

鷺の見得 13片岡仁左衛門

仁「それから、鷺の見得、大阪の伴内が時にはやる・・・・。」

加賀山「市川箱登羅(二代目)がしていましたね。」

仁「束に立って、片足を上げて極まって、キッと降ろす。この見得は、鷺坂伴内の鷺から来ているのでしょう。これは大阪の方がやかましい型なんですけれども、あれは面白いと思います。上方の心ある人はやります。東京の人はやりません。(※現在ではやっています。という注釈有)」後略(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

補足)志野葉太郎

加古川本蔵これへと申せ」の伴内の見得にもいろいろがるが、箱登羅の扇を口にくわえ、両手を大小にかけ束に立っての、鷺の見得とでもいいたいような形が面白かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※扇を扱う伴内は現行見たことがない。箱登羅が活躍した上方系の役者には残っているのだろうか・・・。

 

伴内役者の心得を13代仁左衛門が語る。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

助高屋の見得 2尾上松緑

松緑が語る 〜〜戦前戦後の歌舞伎をめぐって〜〜」(昭和60年8月2日NHK教育テレビ)という番組内において、昭和11年3月歌舞伎座のビデオ映像を山川静夫氏と振返っている。「裏門」で、〽エツササとぼつ帰した」のフリの後、左足を上手へ踏み出し、両手を下手側に真横に広げる見得を、松緑は”助高屋の見得”という名称があることを語っていた。「助高屋の見得」と言うことは聞いたことがなかった為記す。映像の伴内は五代目助高屋高助(通称あんちゃん)、勘平は十五代市村羽左衛門、おかる十二代目片岡仁左衛門

研究・批評

カシラ

三枚目(油付、鶴首)(齋藤清二郎「文楽首分類表」『文楽首の研究』昭和18年6月)

 

伴内の腕 戸板康二

(進物場で)この間、師直のセリフはなく、駕の向こうで、手を叩くことだけで師直の指示を表わす。それをきいて、腹話術のように、ひとりで応答するあたりで、伴内に扮する人の腕の高下がわかる。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

・・・・エヘンバッサリ・右足を出したら・・・・

 

エヘンバッサリとアハハ、バッサリ 加賀山直三

中間と伴内とのエヘンバッサリ、又は、アハハ、バッサリも、馬鹿々々しいと云へば馬鹿々々しいが、そうした遊びもピッタリと額縁に箝るのが歌舞伎演出であると知るべきであろう。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

※エヘンバッサリ・足を出したらバッサリは知られているが、アハハ、と笑ってのバッサリは認知度は低いのではないか。

 

伴内の演じ方 川尻清潭

これの稽古をする場面、普通は伴内の咳払いの「エヘン」を合図に「バッサリ」と斬れという、即ち「エヘン、バッサリ」のやり方と、又、別に伴内が片足を上げるのを合図にするのと二様があって、トド「加古川本蔵これへと申せ」のきまりは、片手で裃をひき上げ、拳を握った片手を横に伸した構え、乃至は刀の柄へ手を掛けた見得、或は大小の柄を握った見得等があり・・・(後略)(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月)

 

敷居が高うござる・・・の生かし方 戸板康二

ことに、道具が変わる時に、伴内が本蔵を誘導して門の所まで、あいかわらず左足を無器用に引きずりながら行って、「本蔵殿、敷居が高う御座るぞ」というと、いかにも、その足が無駄なく生きるのである。(戸板康二忠臣蔵東京創元社 昭和52年12月15日)

 

混乱する伴内の演出 清水一朗 二川清 津金規雄 上村以和於

清「伴内については前にも二川さんが言われたように「えへん、ばっさり」と「これはこれは」で足を前に出したらばっさりやる演出を、きちんと区別してもらわないと、最後の「お足許が危うござる」が何だか判らなくなっちまう。あれは足を踏み出そうとしたら中間達がばっさりやりそうなので足を引き、片足立ちの鷺の見得になるんだと思う。それをやらずに「お足許が危うござる」と言うから、演出が混乱するんだよ。」

二「足が上げられないから敷居が高いと言う・・・。」

清「そう言った意味が全然通じない。幾つかある伴内の演出を混ぜて、混乱させているのは拙いですよ。」

津「夜露は体に毒でござる」は?

清「あれはまた別な演り方でしょ。璃珏が演った、扇子を本蔵の頭の上に拡げる演り方。」

津「それは本蔵に対する当てつけみたいな意味はない訳ですか?」

上「ちょっと夜の風情を感じさせるというような、高尚趣味じゃないかな。」(「当世いろは評林」『劇評』第46号 昭和62年5月10日)

 

初代中村吉之丞の伴内 二川清 清水一朗 上村以和於 津金規雄

二「昔吉之丞が演ったのを知らないんですよ、幕切れで門内へ入ろうとすると仲間にバッサリとやられるので右足を上げられず、『敷居が高うござる』という処に面白味があるんで、ここは吉之丞が巧かった。」

上「この役は最近は子團次でしょう。」

津「最後にもう一回バッサリを演るんですか。」

清「後ろを向いて引っ込もうと足を上げるとバッサリと来るんで、上げようにも上げられない形から、鷺の見得となる。」

二「だから『敷居が高うござる』が活きるんですよ。」

上「三十年代まではそれをやってたと思うが。」

清「吉十郎まではやっていた。吉之丞の時、仲間の筆頭に出ているんだから。処がその後の弥五郎辺りになったら、やらなくなっちゃった。」

二「右足バッサリやる以上は最後のあれはやらないとね。たまたま戸板さんの古い劇評に書いてあるのを見付けたんです。『敷居が高う・・・』の意味が書いてあるのを。」

清「鷺の見得をきるというのも戸板さんだったと思う。」

上「そこまで演るから、エヘンバッサリより右足バッサリの方が好きなんです。『夜露云々』は高等過ぎてあの洒落が皆に通じないしね。鶴蔵だったか右足バッサリでやっていながら『夜露』を言っていた。」

清「大阪の璃珏も『夜露』だったが、科白が少し違ってて、乙に澄ました感じが可笑しかった。」(「仮名手本評判蔵」『劇評』第53号 昭和63年11月25日)

 

吉之丞の伴内 井上甚之助 昭和22年11月東劇評

「進物場」では、吉之丞の(東京)の伴内が、高助(大阪)璃珏(京都)を抜いて遙かに巧い。こんな役の巧さになると、吉之丞の巧さなど実にはっきりする。その巧さなど、或は今度の三座の「忠臣蔵」中での有数のものかと思われる。(「忠臣蔵」「忠臣蔵」『幕間』第三巻 第三号 昭和23年3月5日) 

 

加古川本蔵これへと申せ」の見得 志野葉太郎

加古川本蔵これへと申せ」の伴内の見得にもいろいろがるが、箱登羅の扇を口にくわえ、両手を大小にかけ束に立っての、鷺の見得とでもいいたいような形が面白かった。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

※扇を扱う伴内は現行見たことがない。箱登羅が活躍した上方系の役者には残っているのだろうか・・・。

 

伴内のしどころ 川尻清潭

伴内が(若狭)右足へ取付いて極るのが定法ですが、近頃の伴内はこの時に片手を突いて、楽をしているのを見掛けます。本来は足へしがみついて、ガタガタと震えているのが、昔はこの役の演どころとなっていました。(『演技の伝承』演劇出版社 昭和31年12月) 

おかる・勘平

芸談
研究・批評

カシラ

(裏門)勘平 アオチとネムリの源太(油付、はね鬢)

(裏門)おかる 娘(油付、高髷)

 

おかるの風情 加賀山直三

お軽勘平の件は、草双紙のお家物風の若侍と腰元の一対の恋仲同志の情緒に掬ぶべき味があっていい。伴内が搦んでの、邪魔ッ払ひのあうむは愛すべき歌舞伎の遊びなのだから、これをテレ臭がって簡単に省略したり、そそくさと駆足でやったりしてはならぬ。(勘三郎歌右衛門の、先年の所演にはその傾向があった。)又、お軽の品のよすぎるのも考へ物で、矢ッ張、幾分かの蓮葉な感じも必要である。二度目の駆付け、哀愁味の外に、逢曳後の恋の肉体的な疲労から来る瘻れ(原文ママ)とでも云つたものが、嫌味にならぬ程度に添はつて居る方がこの件の哀れと風情を増すとすべきではあるまいか。(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

裏門の衣装 志野葉太郎

お軽は矢絣が多い。昔は角隠しをしていたというから恐らく御殿模様の振袖という時代の拵えだったのだろうが、御殿女中の外出には矢絣という常識がいつの間にかこういう所に落着かせたようだ。これは『落人』の場合にもいえることである(前進座の国太郎は写真でみると角隠しをしているが、但し着物は矢絣)。(『歌舞伎 型の伝承』 演劇出版社 平成3年11月30日)

その他・劇評

床山 鴨治歳一

若狭之助と判官とは同じ”大名”の髷だが、役の違いを表すために、別になるように作らなくてはいけないと言われている。若狭之助はイチ(※刷毛先の後ろの折ってある部分。)を少し伸ばし加減にしてすっきり見えるようにする。判官の方は丸みを少し多くつけることで、役それぞれの性格を巧みに表現する。(「鬘と役柄の表現」『歌舞伎の表現をさぐる』平成13年10月 演劇出版社

 

梶川与惣兵衛 13片岡仁左衛門

むしろ半不精なら辛抱出来るけれどもね。梶川与惣兵衛なんてのが代用で出て来る時があったんですよ。一頃大阪なんかにね。梶川与惣兵衛が抱きとめたんじゃァ、あなた、物になりませんよ。(『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

本蔵役者に望むのは  加賀山直三

あれは、代わりの人が出るにしてもですね、本蔵にピッタリみたいな、例えば、大歌舞伎でなく、小芝居中芝居に出た時には本蔵が本役だと言った程度の人が出た方がいいですね。その意味で、いかにも本蔵らしいと思ったのは、中村竹三郎(1882〜1950)ッて人がそうだったと覚えています。 (『国立劇場・歌舞伎の型1 仮名手本忠臣蔵雄山閣 平成28年12月)

 

中村竹三郎 加賀山直三

一寸した面魂を持った傍役である事は必要で、早く云へば、小芝居で九段目の本蔵を本役として勤められる位の人柄のある人が欲しい。その意味で、最近は中村竹三郎と云ふ絶好の三段目の本蔵役者が居る事は幸ひである。(私は昔、宮戸座でこの人の九段目の本蔵を見た事があるけれど、そのスケール内でなかなか戴ける本蔵だったと覚えて居る)(「舞台鑑賞手引」『幕間』第九巻 第十二号 昭和29年12月1日)

 

明治40年11月 歌舞伎座 忠臣蔵一日替わりの劇評は、三木竹二の『観劇偶評』に詳ししい。

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参考文献たち

※敬称省略